いつも聞きたい故郷の言葉

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いつも聞きたい故郷の言葉

聖霊降臨祭 2020年5月31日(日)
使徒言行録2章1~21節 ヨハネ7章37~39節

いつも聞きたい故郷の言葉

コロナのために自粛する中、一日一度も、誰とも話すことがなかった方もおられることと思います。気づいたら一言も話してないとか、話していないことさえも気づかないうちに、言葉を忘れてしまう場合もあります。それは、息をしていないことと同じ事と思うのです。ですから、その相手がペットであっても、声に出して話をすることは生きることの基本です。

人は皆自分だけの言葉を持っています。私の母語は韓国語ですが、皆さんと同じく日本語を話しています。しかし、韓国語とか日本語というような、言語的な言葉ではない、私だけの固有の言葉というものを持っています。その言葉はその人の内面でこそ作られるものです。その人の生育暦も影響すると思いますし、おかれている環境も影響するでしょう。そして、信仰をもっている人の言葉は異なります。信仰をもつと、新たな言葉を語るようになるのです。

主の弟子たちがその例です。彼らには、野心があり、イエスさまを通してその野心を実現しようとしていた人たちでした。ですから、弟子の中ではいつも争いがありましたし、一番になるためには自分の命さえ捨てますと誓うほど(ヨハネ13:37)、情熱的な人たちでした。
しかし、イエスさまの十字架の死の前で彼らは何も出来ませんでした。イエスを否認し、十字架の死の現場から逃げ出すような弱い人たちでした。その彼らの内側は傷だらけで、ばらばらの状態でした。

その彼らが、聖霊に満たされると、他の人を感動させる人へと変容するのです。新しい言葉を話すうになりました。五旬祭の時、一つの場所で祈っていた彼らは、霊に満たされ、霊が語らせるまま、ほかの国々の言葉で話し出したのです。聖書には、「激しい風と共に炎が、祈っていた弟子たちの上にとどまると、一同がほかの国々の言葉で話し出した」と記されています。ほかの国々の言葉で話し出すということ。それは、神の国の言葉を話し出したということ。本当のふるさとの言葉です。(異言を語る)。神の国の言葉は、理解できない言葉ではなく、被造物が一番聞きたいと願っている言葉です。優しさに溢れ、渇きを満たす本当のふるさとの言葉です。

その新しい言葉を、野心満々で互いに争い合い、疑い深かかった弟子たちが語り出したということ。私の出世、私の成功、私の所有物、すべて「私、私」と言っていた人が「私たち」と言う人に変えられてゆく。弟子たちを、他者の渇きを満たす人に変えていく、それだけ、み霊の働きには、大きな力があり、この出来事が教会の始まりになります。今日が教会の誕生日です。

さて、五旬祭の日に、祭りを祝うためにエルサレムに集まった、国籍と文化の異なるユダヤ人たちは、それぞれ、自分たちの故郷の言葉で神さまの偉大な業を語っている人々を見て驚きます。聖書はその人たちのことを、「信心深いユダヤ人」と記しています。

そして、この信心深い人たちは感動してこう述べるのでした。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか・・・彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(7-11)。弟子たちのことを、「ガリラヤの人」と表現しています。「ガリラヤの人」という表現は、ただの地域を表しているというより、語る人の偏見を表しています。

ユダヤ人の中でも地域ことに格差があり、エルサレムとガリラヤはイスラエルの中で政治的・社会的・文化的に大きな格差がありました。エルサレムの多くのユダヤ人はガリラヤの人々を見下げていたのです。
しかし、自分たちとは異なると区別していたそのガリラヤの人々を通して、エルサレムに住む多くのユダヤ人が福音に出会ったのでした。

ガリラヤの人と自分を区別する人々の中に、私たちの内面の現実があると思うのです。私と他者を比較し、区別しようとします。わが国と外国、女と男、障害者と健常者、内側と外側・・・ありとあらゆることを区別して、そこから優越感と劣等感が生じます。それによって、気分が上昇したり落ち込んだりします。そして、その中から偏見と差別が生み出されます。神さまを信じて、神さまの心にふさわしい生き方をしたいと願いつつ、どんどん神さまから離れていこうとするのです。

イエスさまは、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(37-38)と、述べておられます。
「水が川となって流れ出る」とは、「霊が川となって流れ出る」ことだとも聖書は説明しています(39)。

「わたしのところに来て飲みなさい」。つまり、他へ行く必要ない!というイエスさまのお招きです。それは、私が、イエスさまよりは他を優先していることをよくよく知っておられる方のお招きです。優れたこの世の学問的な知識やイエスについて書いてある神学や解説、賢く生き抜くための人の知恵を優先しようとする私たちを、まったく新たな道へと招いておられるお言葉なのです。

さらには、多くの知識や所有物で一杯になればなるほど、それの奴隷になってゆく私たちへの招きです。私の内面が、どれだけ疲れ、ばらばらの状態で、安息を知らないまま生きているかを良く知っておられる方のお招きです。
つまり、水は上から下へ流れるのに、その真理を破って、下から上へと流れを変えようとする、野心の中で信仰の歩みをしようとする、その私たちを良く知っている方のお招きのお言葉です。

イエスのところに行ってそこで飲むということ。霊の流れの中に自分を委ねるのです。
その時に、私たちは、自分の内面の渇きに気づきます。優しくできない自分、人と比べて優越感をもったり落胆したりしている自分、好きと嫌いを繰り返すことによってどんどん孤独になっている、その自分に気づくのです。

イエスの所で飲むことができた時に、私たちは、イエスさまの招きを真に悟るのです。神の霊へのまったき信頼のうちに、感謝以外は何も差し出すことがないことに気づかされるからです。他と私の区別がなく、外側と内側の区別がなくなる、そこで、私たちは、故郷の言葉を聞くのです。神の国の言葉。誰とも比べなくてもいい、人を判断しなくても大丈夫。あなたはあなたのままで愛されていると。

そして、本当にご苦労さま。良くがんばってきた。急がなくていい、ゆっくり行こう。これらの言葉がイエスさまのところで聞く、神の国の言葉です。ペンテコステの日に、弟子たちが、多くのユダヤ人を前にして語り出した言葉です。これこそ、福音です。

わたしたちもこの言葉を発信する人になりたい。イエスさまのところで何度も、何度も聞いて、それを自分の言葉にし、人にも語り出すのです。語学勉強の基本手順です。聞いて、聞いて、何度も繰り返して聞いて、その言葉を身につけ、イエスさまの弟子としての言葉を習得しましょう。そして、その神の国の言葉を、渇き苦悩する隣り人にむかって発信するのです。この世に神の国を広げるために、私たち一人ひとりは、教会となってこの世へ遣わされて行くのです。家族の中、仕事の場、あらゆる交わりの場で、渇いている魂が聞きたいと切に願っているふるさとの安らぎの言葉を語るのです。今年のペンテコステに、神の国の言葉を語る真の教会が多く生まれますように祈ります。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」(ローマ10:15)。

祈り
慈しみ深い神さま
私たちに、内面を見る眼差しをお与えください。
英知の霊である聖霊、私の中に来てください。

内面を見る目、そして、聞く耳をお与えください。
物質的な事柄に執着することなく、常に霊的現実を求めるために
愛の霊である方、私の中に来てください。
私の心に、ますます豊かな愛を注ぎ込んでください。
真理の霊である方 
私は真理であるとおっしゃったキリストのあらゆる面を理解できるよう、
恵みをお与えください。
永遠のいのちに至らせる活きた水である聖霊
私の中に来てください。
終わりのない命と喜びの内に神さまのお顔を見つめる恵みを、この私に与えてください。
                       (聖アウグスティヌスの祈りより)