聖なる口付けで挨拶を!
三位一体主日 2020年6月7日(日)
2コリント13:11~13 マタイによる福音書28:16~20
聖なる口付けで挨拶を!
子どもが言葉を覚えるようになると、まず、「おはようございます」「こんにちは」「ありがとう」「ごめんなさい」という言葉を教えます。他者との関係の中でとても大切な挨拶の言葉だからです。しかし、頬に口付けするとか、ハグをするというようなことを、特に日本では挨拶として教えません。さらには、親しい同性が手を繋いで歩いていると、変な目で見られる傾向がとても強くあることに、日本に来たばかりの時は驚き、この文化の違いになかなか慣れなかったことを思い出します。
新型コロナウイルスの広がりや死者数が欧米に比べて日本はあまりにも少ない。人口10万人あたりの死亡者が、イギリスやスペイン、イタリアで50人を越えているのに対し、日本は約0.5人に止まりました。混雑する交通機関や高齢者人口の多さ、罰則を伴わない緊急事態宣言が出されていたのに、少ない被害で済んだことについて、海外では「不可解な謎」とも表現しています。死者数の少ない理由の仮説が三つ挙げられました。仮説①日本人は普段から頻繁にマスクをつけ、握手やハグではなくお辞儀で挨拶をする習慣や、靴を脱いで家に入る習慣などがある。仮説②BCG接種の新型コロナウイルスに対する有効性について、何らかの関係があるのではないか。仮説③個人の遺伝子の配列の違いによってウイルスに対する免疫の反応が違ってくる。即ち、「免疫反応の司令塔」の役割を担う「HLA」と呼ばれる分子のタイプによって、新型コロナウイルスが重症化しやすいか軽症で済むかになり、HLAタイプの人種的な違いも関係しているのではないか。
ルターハウスで、こういう情報を分かち合いながら学生たちに聞いてみると、日本人はスキンシップが下手だからそれで助かったと思いますと、明瞭な答えが返ってきました。
従来、子どもの心の成長のためには、スキンシップが何より大切と教えられてきました。しかし、今回、スキンシップの乏しさが役立ったとは、何という皮肉でしょう。
本日の第二日課の中で使徒パウロは、「聖なる口付けによって互いに挨拶を交わしなさい」と勧めています。
聖なる口付けによって互いに挨拶を交わしなさい。このことは、互いのスキンシップの大切さを述べているように聞こえます。実際、イスラエルの文化の中では、口づけをすることがとても大切にされていました。
このことに関して参考になるのは、ルカによる福音書7章に記されている物語です。イエスさまがファリサイ派の人の家で食事をなさっておられたとき、その町の一人の罪深い女性が入って来て、「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(ルカ7:38)と記されています。
ファリサイ派の人が、「この女は罪深いのに」と批判的にこの光景を見ているとイエスさまは言われます。「わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった」(ルカ7:44-45)と。
今の私たちの現状から見ると、この女性のイエスさまへの関わり方はスキャンダルな出来事で、クラスターを発生させるような濃厚接触です。しかしイエスさまはこの女性のしたことをむしろ誉めておられます。それくらいイスラエルでは接吻することが大切な挨拶だったのです。
このような文化的背景もっている使徒パウロは、聖なる口づけによって互いに挨拶をするようにと勧めています。
使徒パウロは、聖なる口づけをして挨拶しなさいと勧める前にこのように述べています。「喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば平和と愛の神が共にいてくださいます」(11節)と。
「喜びなさい」と勧めます。喜ぶことは、まるでパウロの宣教テーマでもあるようです。喜びの書簡とも言われるフィリピの信徒への手紙の中では、何度もこの言葉が出てきます。「あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」(2:18)と。多くの苦難の中、命を危うくされながらもイエス・キリストを伝えることを喜びとしていたパウロの、喜びなさいとの勧めは、喜べない現実の中で喜ぶようにということなのです。現実は、孤独で寂しい、不安や恐れもある、反省することや誰かに対する怒りもある、その現実のただ中で、喜ぶようにと。なぜなら、私たちの内にはすでに喜び(イエスさま)が宿っているからです。
そして次に、「完全な者になりなさい」とパウロは続けて勧めます。多くの弱さを抱えている私は、99パーセントは不完全で失敗ばかりしているけれど、完全な方、神さまが一緒にいてくださるのです。その神さまが私の99パーセントの弱さを担って立っていてくださっていることに気づくとき、たった一パーセントのように良く気づかない姿でかかわってくださっている神様によって、百パーセントの完全な者へと変えられてゆくのです。
パウロは次に、「励まし合いなさい」と勧めます。親しい人、愛らしい人は励ましたくなります。しかし、憎たらしく、二度と口を利きたくないと思う人でも、良くがんばった、大丈夫!と一言、励ましの言葉をかけるようにと。
そしてパウロは最後に、「思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」と勧めます。それは、夫婦や親子や教会の仲間関係だけのことではありません。多くの異なる習慣・意見・考え方・思想・宗教の壁を越えて、ありとあらゆる立場に置かれた人と、思いを一つにして、平和を保つようにというお勧めです。
これらのことが日々の歩みの中で実践されるときに、復活のイエス・キリストが私を通して現れされます。神さまの栄光が、私の生き方の中に顕されるようになるのです。そして、そこに、救いの道、聖なる道が開かれるようになります。コロナ禍に苦しむこの厳しい現実のただ中でも、私たちは、聖なる、救いの道を開きながら生きるようになるのです。
しかし、このような生き方は、簡単ではありません。
私たちの毎日は凸凹だらけです。親しい関係であっても、喧嘩をします。「おはよう」、「ごめんなさい」と、本当は言いたくない。子どもには教えたのに、今私はそのように挨拶したくない。これが私の現実です。
どんなに一所懸命に努力して頑張っても、失敗することもあります。そんなときに、いつまでも悲観に沈んでいないで、次の新しい歩みへと直ちに歩き出せるかどうか。
私たちの日常のこうした凸凹の道のり、その中に宿る聖なる方に意識をもっていくときに、私たちの凸凹の道は、救いの道、聖なる道と称され、私たちの関係性の中で生じる一つ一つのことは、実は、聖なる口付けになるのです。
今日は三位一体主日。「父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けなさい」(マタイ28:19)という史上最大の命令が出されました。父と子と聖霊のみ名による道。それは、聖なる道です。救いの道なのです。使徒パウロが今日勧めている「喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」と同じ道です。ですから、恐れることはありません。スキンシップがタブー視されている今ですが、霊的スキンシップを求めて渇いてさ迷う人々に、今こそ大胆に復活のイエス・キリストを現しましょう。先ずは私自身と共に、そして私たちの日常の中に、食卓の交わりの中に、一緒に働く人々の中に、聖なる方、神さまが共におられることを証するのです。
ナルドの香油を注いだあの女性のように、私が大切にしているもの、それはプライドかもしれない、物なのかもしれない、才能なのかもしれない、それらすべてを毎日毎日明け渡し、それによって、聖なる道を切り開き、神の国を広げる尊い歩みを続けたいのです。
父と子と聖霊のみ名による尊い宣教の働きが、他誰でもない、弱く、年老いて、病弱で、不器用な、この私を通してなされようとしていることを、この三位一体の主日に、もう一度改めて受け止め、聖なる道を堂々と歩き出しましょう。
望みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平和とをあなたがたに満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。