祭司長やファリサイ派のよう

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未だに鵠沼の道に迷う。今日は藤沢の図書館からの帰り道に迷い、一時間ほどさ迷った。結局、スマホを出して案内してもらったが、スマホが案内する道が、自分がそれだと思う道と異なることで何度も葛藤をおこす自分。まだ乱れている自分の感覚を認めたくないのか。結局は葛藤した分だけ多くさ迷い、疲れ果てた足で何とか帰ってくることが出来た。訪れた接骨院でその話をしたら、「スマホに頼ったら道を覚えられないので、頼らない方がいいですよ」と。じゃあ、いつまで鵠沼の道をさ迷ったらいいの?

「この言葉を聞いて、群衆の中には、『この人は、本当にあの預言者だ』と言う者や、『この人はメシアだ』と言う者がいたが、このように言う者もいた。『メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。』こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた」 (ヨハネによる福音書7:40~43)

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