私は命の源なる神の畑
マタイによる福音書21章33~46節
先週は、三日間ルターハウスに滞在させていただきました。コロナ禍や夏休みのために中断していた学生たちのプログラムがスタートすることになり、そのために学生たちと準備することがいろいろとありました。
一つは、朝と夕の祈りの時間を一緒に過ごすことです。月曜日から金曜日まで、朝7時と夜9時に祈りの時間を設けていますが、その中には沈黙・黙想の時間もたっぷりとってあり、豊かな祈りの時です。一日の生活の規則正しさを、この祈りの時間を土台に育むことができたらと願っています。この祈りの場に牧師や他の人が一緒にいるのは、学生たちにとって大きな励みになります。皆さんも、いつかぜひ一緒にルターハウスに行って朝夕の祈りに与りましょう。
もう一つは畑のことです。ルターハウスには大きな丸い形の畑が二つあります。今回は秋のものを植える場所の土をみんなでおこしました。面積が広いので、本格的にやればもっといろいろと植えられるのですが、手が届く範囲だけに野菜などを植え、他は遊ばせている状態です。そうすると空いている所には雑草が勢いよく生えてきて、とても大変な状態になってしまいます。そうならないように、シルバー人材センターに派遣を頼んで雑草を取ってもらっていますが、雑草の生えぶりは追いつきません。命の強さをつくづく感じ、いろいろと教えられます。
雑草は、土があるところにはどこでも、種さえ落ちれば芽を出して花を咲かせ、そして新たな種をつくります。
教会の外の塀も、ほとんど石を積み上げたものですが、その間にある僅かな土を雑草は活用します。石塀の僅かなすき間から芽を出して育つのです。
そんな光景を見ながら、今回、ルターハウスで畑の仕事を終えたとき、自分の手の爪の中に土が入って黒くなっているのを見つめていました。そして、もし、この爪の中の土の中に何かの種が混じっているなら、そこから芽が出て、どんどん大きくなって、花を咲かせる。すると私の手は花畑になるかもしれない。そうなったらその花びらを撒き散らして、子どもたちと遊ぼう、というようなことを空想しました。
さて、イエスさまも畑が大好きだったようです。今日も、ぶどう園のたとえ話をとおして神の国のことをお話してくださっています。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出ました。この主人の農夫たちへの信頼がどれだけ厚いものかをうかがうことができます。農夫たちは、これからぶどうの実りを収穫として主人に納めればいいのです。
しかし、それは成りませんでした。主人は、収穫を受け取るために僕たちをぶどう園に送りますが、農夫たちは、送られてきた僕らをみな殺してしまいます。次に送られた僕たちも、殺してしまいます。それから、主人は、自分の息子を送ります。息子なら敬ってくれるだろうと思いました。まだ、主人は、農夫たちを信頼していました。しかし、農夫たちは、主人の信頼を裏切り、主人の息子をぶどう園の外へほうり出して殺してしまいます。
なぜ、なぜこんなことが起きたのでしょうか。あれだけ完璧に整えられたぶどう園が与えられていたのに、農夫たちはなぜその収穫を主人に納めることができなかったのでしょうか。どうして、送られてきた僕たちや主人の息子まで殺さなければならなかったのでしょうか。聖書には、息子は主人の相続人だからと、殺した理由を書いています。それにしても、一体、農夫たちに何があったのでしょうか。何が農夫たちに欠落していたのでしょうか。
この問いの答え、それは「喜び」だと私は思います。このぶどう園で働く農夫たちには喜びがなかったのです。おそらく、農夫たち同士の関係があまり良くなかったのです。確かに立派なぶどう園が与えられていましたが、農夫たちは一人一人が幸せではなかったのです。
なぜ幸せではなかったのか。理由はいろいろと考えられます。ぶどうに対する知識が互いに豊かで、熱心にぶどう作りに取り組もうとして、育て方について論争をしていたのかもしれません。一緒に働く中で、いろいろと見えてくることもあったことでしょう。意見の違い、相手の鈍さや不器用さへの苛立ち、あるいは自分より優れていることへの嫉妬や妬みもあったのかもしれません。喜びがないとき、すべては意味を失ってしまいます。自分がなぜ生きるのか、人の命がどうして大切なのか、わからなくなります。
私たちはどうでしょうか。私の中に喜びがあるのか、これこそ私にとってもっとも大切な問いです。そして、喜びがないとき、それを誰か他の人のせいにしていないでしょうか。実は、私自身がこの喜びを手放しているのです。怒りや悲しみ、失意や嫉妬などに妥協して喜びを手放してしまうのです。
喜びがないときに、その人から新しい芽が出るとか、花が咲くことは難しいのです。人も植物も、命あるものはすべて、幸せな状態でこそ新しい芽を出し、花を咲かせて種を育み、次の始まりへとつなげます。毎日が新芽を出すような新しい始まりです。夜お休みのときを迎えるのも、新しい始まりを生きるための休息です。そして、その営みのすべてが神さまから与えられていると気づくこと、これが喜びの源泉です。この喜びの中で、私たちは農夫としてぶどう園の収穫を神さまに日々納めるような生き方をするのです。
教会もそうです。教会では、みんな違った者同士が集まって礼拝をし、伝道のためにいろいろな奉仕をします。みんなの違いは、神さまからの賜物です。神さまは、それらを持ち寄って宣教をするようにと私たちを呼び集めてくださったのです。これが鵠沼めぐみルーテル教会という、一つの群れ、一つの礼拝共同体、信仰共同体の姿です。
この群れから出た収穫を神さまに納めなければなりません。そのためには、私個人のための利益というものはないかもしれません。各自の社会的あるいは経済的な位置、あるいは男女の区別や老若の差も、すべて自己主張の根拠としては意味を失うかもしれません。
そんなただ中に、主人の僕たちや息子がぶどう園の収穫を求めてやってくるのです。その収穫とは、今年何人洗礼を受けたのか、と言うようなことではありません。あなたがたの中に、喜びの収穫はどれだけありますか、納めるものはそれなのです。私たちが納めるものは、喜びなのです。一人一人の中に喜びが溢れていれば、その共同体の群れは、自然に大きくなっていきます。
喜びが溢れる群れは、主の僕を殺したりしません。喜びが溢れる家、共同体は、客をもてなします。旅路の疲れが癒され、空いたお腹が満たされるようにともてなします。そもそも、ぶどう園を、この教会、この群れを自分のもののように営むようなことはしません。
この喜びの実りを得るための畑が私たちに与えられています。心の畑です。魂の畑です。私たちの内面には大きな畑があります。それは、一人で耕すことはできません。一緒に耕す仲間が必要です。互いの違いによって刺激が与えられたり、励まされたりしながら、私たちの畑は豊かになっていきます。そこには喜びの種がすでに主によって蒔かれています。さあ、この畑を一緒に耕し、育て、そこから出た喜びという実りを神さまにお捧げしましょう。これがこの教会のヴィジョンなのです。神さまは私たちがこのヴィジョンを生きる者であることを信頼して、神の国の働き手として各々の場へ遣わしてくださっています。