幸いな人

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全聖徒主日

マタイによる福音書5章1~12節

幸いな人

この頃、家の中で秋晴れを楽しませていただいています。朝の光が窓から入って来て、窓際の植物を照らすその光の美しい輝きに、うっとりさせられます。今、この時しか見られない美しさ、素敵な光の輝きを、できればずっとその場に立ち止って、時間の流れを忘れて見ていたいと思うくらい、素晴らしい朝の一時です。

古代イスラエルでは、神の住まいである契約の箱に近寄って、それに触れた人は、その前から神的な力が発せられるために、誰も抵抗できず、自分の命を失ったと言われます。それゆえ、だれが契約の箱が置かれている聖所に入ることができるか、当番が決まっていました。そして、その光はただ恐ろしい、怖いというより、かぎりなく透明で純粋な光で、契約の箱の前に立った人のそれまでの行いや心の思いを透かすことのできる光です。

私たちもその契約の箱に日々触れています。今私たちが聞いている聖書の言葉です。聖書の言葉は、神的な力を発し、み言葉を聞く人の行いと心を照らします。それゆえ、その光に照らされるとき、その人は自分の命を差し出さなければなりません。

イエスさまのたとえ話には、まさに真の光を見つけた人が、自分の命を差し出している物語があります(マタイ13章)。

ある商人が、高価な真珠を見つけて、もはや見つけた真珠から目を離すことができなくなりました。そして、生きている限りそれを見つめていることができるように、その真珠のために、自分の命のように大切にしていた持ち物をすっかり売り払ってしまいます。

これは、天の国についてのたとえ話で、真珠とは天の国のことです。本物の真珠が貝殻の中で静かに不思議な光を発して、見ている人の心を捉え、もう一生涯、ずっと見ていられるように、全財産を売り払ってその真珠を自分のものにしたと。つまり、今までは、財産こそを一番大切に生きてきた人が、これからは真珠を一番大切にして、そこから発せられる光とその美しさを見つめようとした、つまり天の国、神の国を生きる者になったという話しです。

この商人が、真珠を見つめている姿、そこから発せられる不思議な光を見つめるその時間、そこには人の言葉はなく、沈黙だけが流れます。そしてその沈黙は、人がただしゃべることをやめるということではなく、その人の内側を照らす静かで不思議な光から語られる言葉を聞くという、荘厳な沈黙のときです。そこで初めて人は、神を見出だすのではないでしょうか。この人は、全財産を売り払った上に、自分の言葉さえも手放します。それ以上の幸いはないと確信しているからです。

今日は全聖徒主日として守っています。今御許におられる方々と共に礼拝を守る日です。この日に、イエスさまが山の上で語られた八つの幸いについての福音を私たちは聞きました。

「心の貧しい人々は、幸い。天の国はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸い。その人たちは慰められる。

柔和な人々は、幸い。その人たちは地を受け継ぐ。

義に飢え渇く人々は、幸い。その人たちは満たされる。

憐れみ深い人々は、幸い。その人たちは憐れみを受ける。

心の清い人々は、幸い。その人たちは神を見る。

平和を実現する人々は、幸い。その人たちは神の子と呼ばれる。

義のために迫害される人々は、幸い。天の国はその人たちのものである」(マタイ5:3~10)。

この八つの幸いは、新約聖書の十戒とも言われるほど、とても大切なものです。ですから、この八つの幸いを一つの説教ですべて話すことはもったいないと思い、今日はその中から、六番目の「心の清い人々は幸い。その人たちは神を見る」という言葉から福音を聞いてみたいと思います。

心の清い人が神を見る。神を見る人は心が清い人である。そしてその人は幸い。それは、まさに、先ほど全財産を売り払って高価な真珠を手に入れ、さらには自分の言葉を手放し、沈黙し、荘厳な語りかけを聞いている人です。

私も神を見たいと願いますが、そのために私の持ち物を犠牲にすることはしません。自分の言葉を沈黙させるようなことはもっとしません。

さらには、み言葉の前に立ち尽くして、それをじっと吟味するような、非生産的な時間には関心がありません。一生涯この聖書の言葉を見つめていたいと思うほど、私はみ言葉に価値を見出しているのでしょうか。

神さまを求めながらも、私たちは、自分の都合に合った神の働きを求めます。神さまの都合に自分を合わせようとは思わないのです。それがどんなに美しく、そこから素晴らしい祝福が与えられるとしても、私は私の都合を優先するような生き方に、あまりにも慣れてしまいました。

それでも神さまは、あきらめません。私たちがどんなに神を見ない、神の言葉に関心がないように生きるとしても、神さまは、ご自分の輝く光で私たちを照らすために、イエスさまを私たちに与えてくださいました。イエス・キリストをご自分の光として、私たちに送ってくださったのです。

それは、愛する者のために尊い命を差し出す母の愛としての神の愛で、それを示してくださったのが十字架のイエス・キリストです。イエス・キリストの十字架の死は、子どものためにすべてを捧げて、子どもを支える母の愛そのものです。その愛に気づく人は、自分の言葉を失わずにはいられません。沈黙し、そして、そこで多くのことを聞くようになります。「私はここにいる。あなたの中に、あなたの傍に、あなたを支え、あなたの人生が輝くための光として、ずっとあなたと一緒にいる」と語りかける御言葉を聞くのです。

十字架の愛、そこは、旅路で疲れた人がいつでも帰りたい故郷であり、私の存在がありのまま受容される命の根源です。イエス・キリストの透明な光に照らされて、「あなたは、清い者」とはっきりと宣言される神の国です。

そこでこそ、私たち生きている者も死んだ者も、一つの交わりに保たれます。

私たちより先に神の国に逝かれた方々は、沈黙しています。神さまからの尊いメッセージに耳を傾けて、今永遠の平安の中に入っておられます。そこでは、この世にあって、どんなに善人であったのか悪人であったのか、富んでいたか貧しかったか、さらには、クリスチャンであったかなかったかを問われることはありません。ただ、十字架の光に照らされ、清い者とされて、神と顔と顔を合わせて生きるのです。

今日の黙示録の14節で、「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」と述べられるように、人の努力や優れた能力によってではなく、小羊、イエス・キリストの尊い光によって、透き通った光の中で神を仰ぎ見ることがゆるされるのです。

全聖徒主日、この日に、私たちは、先に召されて神の国に行かれた方々の沈黙の世界を大切にしたいと思います。私たちに与えられている魂、神さまは、私たちの魂に触れようと、自然界の花や光、月や星たち、太陽・・・そして、御言葉を通して近づいて、私たちを照らしてくださっています。それらすべては神的なものです。じっと見つめてみることによって、既に与えられている自分の中の純粋さ、純真さ、命の根源、故郷を憧れる静けさを回復していきたいです。なぜなら、私たちは、神を仰ぎ見ることができるようにされた、幸いなもの、神さまの尊い一人一人だからです。

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