禁じられた献金
鵠沼教会ニュース 11月
巻頭言
2コリント8:1~7
「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」。
禁じられた献金
幼稚園では、子どもたちが毎朝「いかに楽しいことでしょう 主に感謝をささげることは」(詩編92編2節)を唱えて祈っています。子どもたちの声を聞きながら、私は、楽しく感謝することの意味を改めて考えさせられています。
上の聖書箇所はコリントの教会に宛てられたものですが、コリントの教会は他にもいろいろと問題を抱えていましたが、捧げること、分かち合うことに関しても乏しい教会でした。そのことに対して、パウロはマケドニア州の諸教会の献身的な姿をコリントの教会に伝えています。マケドニア教会は、試練も経験していましたし、極度の貧しさの中にありました。しかし、彼らはそういう状況の中で献げ、分かち合い、貧しさを豊かさに変えていたのです。献げることが罪赦された者に対してゆるされた、尊い奉仕であると受け止めていたのです。
本当の豊かな暮らしとは、経済的に富んでいる状態ではなく、他者の必要を満たし、喜んで分かち合うことができるときのことを言います。コロナ禍の中で私たちの暮らしは一変しました。教会も献金が減りました。しかし、そうであるからこそ、貧しい人々と分かち合い、試練の中に置かれている人々に手を差し伸べていくこと、それが豊かさへのいちばん早い道、罪赦されて神の恵みによって生きる人の尊い奉仕であることを聖書は教えています。
第三世紀頃、カルタゴの主教で聖キプリアヌスという人がいました。彼は、当時、教会の信徒に懲戒を与える必要が生じたときに、過ちを犯した信徒に対して教会への献金を禁じることを懲罰として設けました。その結果、過ちを犯す信徒が減り、教会の秩序は以前より良く保たれるようになったと伝えられています。献げることの喜びを知っている群れです。
この秋に、自然界もその実りを私たちのためにささげてくれています。私たちも、神の国の働きのために、感謝と喜びをもってそれぞれの実りを献げたいと思います。