偉大なことはない

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2020年11月15日(日)

マタイによる福音書25章14~30節

偉大なことはない

秋がどんどん深まっています。朝晩寒く感じますが、とても晴れた日は、ずっとそこにとどまっていたいと、切ない思いを抱くときもあります。それだけ素敵な今を、心を開いて迎えたいものです。

さて、聖霊降臨後第24主日に与えられている福音書では、天の国がタラントンの働きにたとえられています。

一タラントンは、当時、働く人の十六年間の賃金にあたるほど大きな額でした。

ある人が、僕たちを呼んで、一人一人の力に応じてタラントンを預けて旅に出かけます。一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントン。

五タラントンと二タラントンを預かった二人は、早速商売をし、倍の利益を残しました。しかし、一タラントンを預かった人は、土に穴を掘ってそれを土の中に隠してしまいます。

長い時が経って、旅から帰ってきた主人は、三人を呼び寄せて、預けたタラントンの清算を始めます。商売をして利益を上げることができた二人の僕は、主人の前に出て行って、利益を残したことを報告しました。

しかし、預かったものを土の中に隠しておいた僕は、二人の僕たちとは違って弁明を並べます。「『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です』」(24~25節)。

この人は、どんな口調でこの弁明を述べているでしょうか。彼は、主人のお金に手をつけず、そっと土の中に埋めて隠してしまったのです。

この人の言葉には、「あなたのことが恐ろしくなり」という表現がありました。この表現から、彼の心に広がっている恐れと不安を察することができます。彼は、不安と恐れに心が支配されています。とても不自由な人です。

そもそも、主人もそういう彼を知っていたのかもしれません。だから彼には、ほかの人より少ない、一タラントンを預けたのかもしれません。

福音書は彼のことを厳しく裁いています。「怠け者だ」と。終りには、「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」と、とても厳しい言葉がイエスさまの口から述べられています。

せっせと工夫できた人が褒められるのはわかりますが、出来なかった人に対して、どうして福音書はこれほど厳しい言葉を述べているのでしょうか。

私は、この福音を聞く私と、一タラントンを土の中に隠した人と、深い関係があることに気づきました。ですから、この人が救われる道を探さなければならないと思うのです。そうでなければ、私自身、ずっと不安と恐れの中で苦しまなければなりません。それに、福音を宣べ伝える教会が、悪に向かって立ち向かう力を養うためにも、この人に対して赦しの宣言をすることなしには、委ねられた働きを全うできないと思います。

今回のアメリカ大統領選挙は、いつもより全世界が関心を集めたものでした。わたし自身も、何度もスマホを開いてニュースを確認するほどでした。

10日付けの朝日新聞の朝刊には、「トランプを生んだ土壌」という記事が載っていました。つまり、「白人が主役だった社会が変わりゆくことへの不安や不満の受け皿」として、古き良き時代を取り戻すための「米国第一主義」を掲げたが、その中では、分断を引き起こすような政治をするしかなかった。しかし、「中身が伴われない政治は、新型コロナウィルスには利かなかった」と。つまり、ウィルスのようなものは、人間と違って騙されないということを書こうとしたのではないかと思います。

白人こそ、エリートこそ、経済こそ、米国こそという土壌で育てられた人にとって、黒人も、貧しい人も、無学な人も、世界のすべての国々が共に生きるという土壌に変えられてゆくことが、どんなに不安で怖いか。だからその変化を受け入れられなかった。つまり、白人中心主義的なイデオロギーが破壊されるとき、その内面に広がる不安と恐れの力は、社会や国々を分断させるような形でしか現れなかったということです。そういう人の内側には、劣等感があり、それは不安と恐れを大きくしてしまいます。

神さまから預かった一タラントンを、手もつけずに土の中に隠してしまう人の内面も、こういう不安と恐れがあったのではないでしょうか。

五タラントンを預かった人や二タラントンを預かった人は、毎日平和のために働き、貧しい隣人に必要を分かち合い、差別や偏見と闘い、病気や迫害の中でも喜びを選び取った人たちです。一タラントンを預かった人は、このような人たちを見て、複雑は思いに捕らわれていたのでしょう。彼らに嫉妬していたのかもしれません。それで、より頑なになって、疎外感さえも抱くようになり、孤独の中に置かれていたのかもしれません。ですから、神さまから預かった一タラントンという賜物を軽んじて、皆から賞賛されるもっと偉大なこと、立派な働き、成功する道を探してさ迷っていたのかもしれません。

福音書はこの人を役に立たない僕として、暗闇の中に追い出すようにと、厳しく裁いています。しかし、どうでしょうか。私たちの中にも似たような現実がないでしょうか。

教会の暦はもうどんどん終わりの方に来ていて、神さまと私たちとの関係の中での決算の時期に入っています。先週もそうでした。十人のおとめたちが余分の油を準備ができたかできなかったか。今日は、預けられたタラントンでどれだけの利益を残せたか。誰が、「はい、私はちゃんとしています」と答えられるでしょうか。「私は預かったタラントンを確実に何倍にも増やしました」と報告できますか。

実は、そんな立派な返事ができる人がいないことを、誰よりもイエスさまは知っておられます。だから、ご自分の口に委ねられたあの厳しい裁きを、イエスさまご自身が引き受けてくださいました。十字架の上で命を差し出してくださったのです。わたしの代わりにご自分が暗闇の方へ追い出されていってくださいました。

イエス・キリストの十字架を抜きにして、救いはありません。復活のイエス・キリストだけを取り上げようとする人は、イエス・キリストのことを立派で、偉大な人にします。もし、十字架なしの復活だけを讃えるなら、五タラントンを預かった人と二タラントンを預かった人は、この世的に成功を収めた人になります。それこそ、白人主義や一つのイデオロギーが偉大なことになり、神の国もそれを推進していることになります。

十字架の道に偉大なことはありません。どこまでも貧しく生きる道です。五タラントと二タラントンを預かった人は、神の国の働きを担った人です。殉教をした人たちかもしれません。貧しい人々と生を共にした人です。武器を前にしても決して武器を取らないで平和を実現しようと奮闘した人です。みんな、イエス・キリストの十字架の後に、黙々と従って歩んだ人たちなのです。

その道は、一瞬にして得られるような道ではありません。私たちは、何か大きな旗を掲げて、人々の関心が多く注がれる所に偉大さがあると思いがちです。または、有名な人や財閥、政治家、王様のような人たちは偉大なことをして、偉大な道にいる人のようにも思いがちです。教会も人が多く立派な建物を持っている教会が、良き働きをしているように思われがちです。一タラントンを土の中に隠した人は、この道を求めていた人なのかもしれません。ですから、不安と恐れが尽きず、目に見えない神さまの存在をも恐れています。

しかし、十字架のイエス・キリストの道には不安も恐れもありません。この道には喜びがあります。大きな信頼があります。経済的に貧しくても、その心には、深いところにまで広がる平安があります。

この道を歩くと言うことは、コツコツと与えられた働きに仕えること。与えられた賜物が大きいか小さいかにとらわれず、与えられた道を感謝して味わいながら歩むこと、それだけなのです。毎日が同じことの繰り返しであっても、その日々の中で喜びを見出し、一緒にいる人を励まし支えること。人々の噂の中に巻き込まれているときにでも、感謝の祈りができること。与えられたタラントンを増やす方法は、ごく小さな歩み方の中にあります。そして、喜びと感謝の内にタラントンはどんどん増えてゆくのです。それこそ、偉大な道です。

 

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