時から時へと生きる人

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マタイによる福音書25章31~46節

時から時へと生きる人

「愛の反対は憎しみと思うかもしれませんが、実は無関心なのです。憎む対象にすらならない無関心なのです」(マザー・テレサ)。

以前、来日されマザー・テレサは、日本の物質的な豊かさの裏にある精神的な貧困に気づき、物質的に豊かになることへの懸念を表しておられました。その中で今のような言葉を述べられたのです。

「愛の反対は無関心である」ということ。

ある学校で先生が学生たちにこのような質問をしました。今あなたがたの親にとっていちばんの心配は何だと思いますか。ほとんどの学生たちは「お金のことです」と答えました。しかし、先生は「いいえ、お金ではなく、孤独です」と返事をしました。皆が成長して離れて行ってしまった後に訪れる寂しい生活を、親たちは恐れていると言うのでした。

子育ての時には多くのエネルギーが子どものために使われ、子どものことで頭が一杯です。しかし、子どもが成長し、自立して離れた、その後に訪れる親の虚脱感は、人によっては言葉では言い表すことができないほど辛いもののようです。

結婚をしていてもしていなくても、家族がいてもいなくても、やがては、だれもが一人になる。その一人の生活が、もし孤独の悲しみに覆われるのなら、神様は決してその状態を喜ばれません。そして、その孤独は、一人でいるから訪れるものかというと、必ずしもそうではありません。私たちは、家族がいても、大勢の人々に囲まれていても、孤独の中に置かれる時があります。つまり、自ら心の扉を閉めてしまう、そのとき孤独の中に陥ってゆくのです。

今日の福音書は、イエスさまが、その孤独から私を救ってくれてありがとう、または無関心で、探し出してもらえなくて寂しかったと、すねておられるような様子です。

「イエスさまが孤独?」、「イエスさまも救われたい?」、「イエスさまが拗ねておられる?」。まさか、イエスさまがこのような表現に当てはまるような方ではないと思うかもしれません。しかし、私たち一人一人の中におられるイエスさまに思いを馳せてみたいと思います。イエスさまはいつもどこにおられますか。

今日は聖霊降臨後最終主日です。教会の暦が変わるときです。古い年を送り、来週から新しい年を迎えます。昨年のアドベントから始まった一年間を振り返るとき、どんな一年でしたか。光としてこられたイエス・キリストの光に心の暗闇を照らされながら歩んだ、幸いな一年でしたか。

私は、昨年の新しい暦の始まりのアドベントのときには考えてもいませんでしたが、4月から皆さまと出会えたことで、とても幸いな日々を過ごしました。コロナ禍の中に置かれてはいますが、皆さまとの出会いの喜びは、コロナ禍がもたらす不便さを遥かに超えています。私にとって皆さまはイエスであり、神さまの愛を運んでくださるお一人一人です。

しかし、だからと言って百パーセントイエス・キリストの光の中を歩いたのかと問いかけられると、「そうです」と自信を持って返事することはできません。なぜなら、私の中には私だけが背負って行かなければならない弱さがあるからです。その弱さは、時々隣人から自分を離して孤立させます。暗闇の中をさ迷い、心の扉を閉じてしまいます。

そんなときは果てしない渇きの時であり、満ちることを知らず最も貧しく飢えている時であり、内面の体に羽織るものを一枚もかけていない惨めなときであり、自分を牢屋に入れている不自由な時であります。

コロナ禍のなかで、あれも出来ないこれも出来ないと右往左往している自分。そんな自分にどれだけ気づき、そんな自分をどれだけ訪ねたのだろう。

本日の福音書が私たちに問いかけているのは、このような私の状態をどのように乗り越えていくのかということです。なぜなら、自分が貧しくて牢屋に入れられた不自由な状態の中では、人の貧しさや不自由さに連帯することは出来ないからです。

私たちは、嬉しいときも苦しいときも、どんなときにも、洗礼の神秘を生きる者として招かれています。洗礼の神秘というのは、イエス・キリストの死に預かることです。使徒パウロは次のように述べています。

「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを」(ローマ6:3)。つまり、私たちが受けた洗礼の中に、キリストの十字架の出来事が含まれているということです。そしてそれが神秘と言われるのは、十字架の死にあずかるときに、そこで復活の喜びにもあずかるからです。

イエス・キリストの十字架は、苦しみそのものです。十字架は、拝むものではありません。連帯するものです。この世で苦しみに遭っている人々の苦しみとの連帯です。それを忘れてしまうとき、水が流れを止めて一つの場所に集まって濁り始めるように、私たちの信仰も教会も濁るようになります。そのとき、洗礼は単なる過去の出来事になり、さらにはその神秘を生きるということは難しくなります。

歩き続けること。十字架のイエスの道は、どんな時も休まず歩き続ける道です。イエスさまがガリラヤからエルサレムまで歩き続けられたように、私たちも始まりから次の始まりへと歩き続けるのです。そこで私たちはどんどん新しくされて行きます。神様に向かって歩いているからです。十字架のイエスさまが連帯なされ、愛され、大切にされるものを私も大切にしようと連帯するからです。

先週は、小桐さんが関わっておられる湘南YWCAのキルトの展示会に行ってきました。一年間をかけて、女性たちが一針一針とつなげたものが素敵な作品になり、そしてそれが長い間タイのエイズ孤児たちのために贈られました。今は、東日本大震災で被災した子供たちに、福島、仙台のYWCAを通して届けられているそうです。女性たちの小さな働きが、大きな愛につながっていることを知りました。不安や悲しみの中にいる子どもたちにどんなに大きな励ましになり、生きる希望を与えていることでしょう。連帯して生きる力はすごいと思います。

教会の暦は、どんどん新しい方へ更新されてゆきます。来週は年が変わりアドベント、新しい季節が始まります。教会に暦があるというのはなんと大きな恵みでしょうか。毎年アドベントが来る、クリスマスも来る。でも単なる繰り返しではありません。どの年も、初めてのアドベント、初めてのクリスマスなのです。それが教会の暦の意味なのです。ですから教会は暦の流れの中で問われています。コロナ禍で恐れや不安の中にいる人々、苦しみの中にいる人々とどう連帯したクリスマスを祝うのかと。

時を生きる人、暦を生きる人、つまり、歩き続ける人は、小さくても一つ一つのことを楽しみます。自分の願い通りに物事を進めることに執着する生き方から解放されたからです。季節の変化に感動したり、小さかった花のつぼみの開花に喜んだり、朝日の昇りの圧倒的な力強さに驚いたり・・・これらの過程の中で、自分の内面の深いところに宿っておられるイエス・キリストの静かな存在に気づき、自分が決して一人ではない、貧しい者ではなく、溢れるほど満ちている恵みをいただいていることに気づきます。このような人が、どうして他者の貧しさや悲しみに気づかずにいられるでしょうか。どうして十字架の主の手となり足となり口となって、必要としている人々に恵みを分かち合わずにいられるでしょうか。この人は、十字架の出来事の中を日々生きる人です。この人は、孤独や悲しみを生きる人々の中におられるイエスさまを救う豊かな働き人です。

さあ、歩き続けましょう。どこまでも。イエスさまと一緒なら恐れはありません。イエスさまの時の流れに沿って、自分の足で歩くのです。

 

ユーチューブのリンク  ⇒  https://youtu.be/hJ9kp3np2n4