目を覚ましていなさい

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マルコによる福音書13章24~37節

目を覚ましていなさい

待降節が始まりました。救い主がお生まれになる時を待ち望む季節です。

教会では、四週間の期間を設けて、救い主がお生まれになる日を待ち望み、それにむけて準備をします。幼稚園の先生たちがクリスマスツリーやクランツ、ドアに飾るリースを準備してくださいました。これらの飾りとともに光る灯りを通して、救い主が私たちのところに来てくださるようにと、願いを込めています。

そのためには、先ず、心を低くすることが求められます。なぜなら、救い主が生まれるところは、とても低いところ、みすぼらしいところで、そこに生きる人々のところにお生まれになるからです。待降節、それは心からへりくだって謙虚さを学ぶ季節なのです。

待降節を他の言葉ではアドベントと言いますが、ラテン語のアドベントゥスから由来した言葉です。いくつかの意味を含んでいる言葉ですが、一つは「冒険」という意味があります。もう一つは、「到来」または「到着」という意味があります。それが人物として使われる場合は、アドベントールとなり、「到来者」、「来る人」、または「訪問者」というふうになります。これらのどの意味も、この季節にはふさわしいものと思います。待つ側の私たちには「冒険」をすることになりますし、救い主はまさに「到来者」になるからです。

それでは、私たちはどんな冒険に出かけて行くのでしょうか。

新約聖書のルカによる福音書19章には、徴税人ザアカイの有名な話があります。ザアカイはエリコという町に住んでいました。彼は、背が低い人だったようで、イエスがエリコの町に来られるという話を聞いて、イエスを見ようと木の上に登ります。エリコの町に来られたイエスは木の上のザアカイに気づかれて、今晩あなたの家に泊まりたいと言ってザアカイの家に入って行かれます。この様子を見た他の人々は、イエスのことを、罪人の家に泊り、食事まで一緒にしたと非難します。

罪深い徴税人というレッテルを貼られて、人々の群れの中に堂々と入っていけないザアカイ、そのザアカイにとってイエスは、自分の家を訪れてくださった「訪問者」「来客者」「アドベントール」であるわけです。イエスが訪れてくださったこの日は、ザアカイにとっては、救い主に出会ったクリスマス、その人生の方向を大きく転換させられた日になりました。木に登るという冒険を通して、ザアカイは救い主に出会ったのです。

この出会いによってザアカイの生き方がどれほど変ったのか、それはザアカイのこの告白に表れています。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(ルカ19:8)。

このように、アドベントという言葉の由来とおり、クリスマスは、罪人である人間、私たちのところに訪れてくださる来客者、救い主を迎えるときです。そして、訪ねてこられた方によって人生の方向転換がおきる、つまりアドベントのもう一つの意味である冒険が、その人の人生に起きるということなのです。

しかし、この冒険は、ただの人間側にだけ起きる冒険ではありません。救い主が人間世界に生まれる、訪問者として来られるということは、この訪問者を遣わされた神さまにも冒険が始まったということなのです。神さまが、私たちを愛されて、冒険をなさっておられるということ。それゆえ、私たちは、神さまと一緒に冒険をするように招かれています。なんと素晴らしいことでしょうか。

そのアドベント、待降節の始めの主日に与えられた福音書にはこう記されています。「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」(24~26)と書いています。

大変なことです。私たちが待っている救い主が来られるときには、太陽も月も光を放たず、星は空から落ち、天体が揺り動かされるというのです。

これは、冒険を超えて、宇宙の秩序が、私たちの秩序が取り壊されることを示しています。ですからイエスさまをお待ちするのを止めて、いらっしゃらなくても結構ですと、お断りしたくなるくらいの激しい現象が起ころうとしているというのです。このことは一体何を意味していて、私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。

聖書には、そのことに対する答えまでもが一緒に書かれています。

「家を後に旅に出る人が、僕(しもべ)たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(34~37節)。

目を覚ましていなさい!

この勧めは今の短い5節の中に3回も使われています。それだけ大切な言葉なのです。そもそも目を覚ましているということはどういうことでしょうか。

先週は幼稚園の収穫感謝礼拝があり、そこで多くの実りをもたらしてくださった神様に感謝し、子どもたちの成長をお祝いしました。

果物や野菜がささげられ、それらが私たちの命を支えてくれていることに感謝しました。そして、子どもたちの中におられ、子どもたちの命を輝かせながら成長を支えてくださる神様に感謝しました。

畑で成長する野菜や果物、そして子どもたちがみるみる成長する姿は、とてもわかりやすく神の国の動きを現してくれます。どうしてそれらが大きくなるのか、管理している農夫も、世話をする親もわからない。けれども、確実に大きくなり、背が伸びます。

目を覚ましているということは、このようなすべての成長に心をとめるということ、その成長を助け、それを見守ること。神の国は、肉眼では見ることができませんが、確かに成長していて、どんどん、暗闇を照らす働きを大きく広げているのです。その働きに私自身は参加しているかどうか、眠っていたりはしないだろうか。

今年はコロナ禍の中でクリスマスを迎えることになりました。多くの人が命を失い、今もコロナの被害は広がるばかりです。暗闇がどんどん広がっています。しかし、暗闇が大きくなればなるほど、光の働きもどんどん大きくなります。私たちの知らないところで、アドベントールとして、到来者としてこられる方は、この世の暗闇の深いところにこそ訪れて、苦しんでいる人々、貧しさや悲しみの中に追いやられている人々の間におられるのです。コロナ禍だからと言って神の国の成長が止まっているのではありません。その働きを担うのにふさわしい人を器として、神さまの冒険はなお続いているのです。

この方を私の中に迎え入れるために、私たちはどこにまで出かけて行くのでしょうか。どんな冒険をして、私たちは、暗闇を照らす光としてこられる方の道を整えることができるでしょうか。ザアカイのように、必死に木の上に登り、救い主を我が家に招き入れるために、目を覚まして、神の国の成長、その広がりに心の扉を開きたいです。

クリスマスは、一年に一度行われる行事になっていますが、ある人は、「毎日がクリスマスだったら」と、その霊的な書物に記しています。それくらい、私たちの日常が、いつどんな時も救い主をお迎えする場とならなければならないのです。さあ、私たち一人一人に与えられた責任ある働きを担うために、このアドベントの冒険に出かけましょう。

 

ユーチューブはこちらより ⇒ https://youtu.be/J8HprROAaFE