靴のかかとに棲む神
私が進もうとしている道を誰か先に歩いてくれた人がいると心強くなります。たとえば、取り組もうとしている分野で論文をすでに書いてくれた人がいたり、登りたい山に関して、すでに先に登った方がその時の情報を教えてくれたりすると、とても心強いものです。
同様に、親は子どもにとって、先輩は後輩にとって、一つのモデルになります。そう考えると、わたし自身、親として、先輩として良いモデルになっているのだろうか心配になるときがあります。
今日は洗礼者ヨハネの日。
ヨハネは救い主の到来の道を備えるために遣わされた人です。ヨハネの生活は、普通の人々とはとても異なっていました。住処は荒れ野です。食べる物はいなごと野蜜、着る物はらくだの毛衣でした。ヨハネは徹底してこの世の文明から離れた生活をしていました。神さまだけを見つめる禁欲的で孤独な生活です。徹底してこの世と妥協しない人が宣べ伝える一言は、それだけの重みをもっていました。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と。とても単純な呼びかけです。
その呼びかけは人々の心を打ったのでしょう。大勢の人々が彼のところに集まります。人々は彼のことをメシアだと思いました。彼が救い主だと思ったのです。しかし、彼ははっきりと答えます。「わたしではない。わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と。
誰かの先を歩くということ。後から来る人の道を整えるということ。後輩のために、子どものために…この洗礼者ヨハネの姿から学ぶべきことがあります。親だから、先輩だからということで自分の見解や知識、信念、または宗教観のようなものを一方的に教えようとするのではなく、むしろ後から来る者がその働きを全うできるように、その人だけがもっている個性や賜物を大きくして働きやすいように、そのために道を備えるということ。ヨハネは自分の命を献げるまで小さくなってイエスさまを指し示しました。ですから、イエスさまも、ヨハネのことを「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。」(マタイ11:11)とおっしゃって、ヨハネのことを讃えるのでした。
先週は中久喜さんからとても素敵な言葉をプレゼントしていただきました。それは外の掲示板にはるための、今週の言葉にも出させていただきました。
「風つよければ 神さまは靴のかかとに棲み給う」。
この言葉は、11月26日の朝日新聞の夕刊の一語一会の欄に掲載されていた言葉です。料理愛好家の平野レミさんが、お父さんの平野威馬雄さんからいただいた言葉。この言葉は、レミさんが結婚直後に、お父様からいただいた言葉でしたが、47年間連れ添ったお連れ合いの和田誠さんの最期を介護していた時に彼女を支えた言葉です。まるで父は自分の結婚生活の最期の時を知っていたかのように、結婚早々プレゼントしてくれた、と。
そして、中久喜さんも、似たような状況の中でお連れ合いの最期を介護して看取った経験をお持ちで、その心に残されたいろいろの思いがこの言葉に慰められ、大きな力になり、私にまで紹介してくださったのでした。
「風強ければ 神さまは靴のかかとに棲み給う」。
神さまは、私が苦しければ苦しいほど、その苦しみのもっとも重いところ、一番の底に棲まわれて、そこで私を支えて、次の始まりへ歩み出すことができるように、命を献げながら支えてくださっている。わたしはこの一文をそのように受け止めました。
救い主イエスさまにとって、洗礼者ヨハネはそういう人でした。次の新しい始まりのために、自分を伝えず、真理を伝え、ひたすら悔い改めのメッセージを宣べ伝えました。道のないところに救い主のために道をひらきました。決して自分の考え方や信念を主張せず、多くの人に囲まれても、「わたしではない、わたしの後にこられる方こそ!」と、自分を小さくし、救い主イエスを大きくして人々の関心をイエスさまに向かわせることができた人。それは、ヨハネによる福音書15章で、実らないぶどうの木の枝が切り取られるように、霊的な実りをもたらすことの出来ないエゴの自分を自ら切り取り、ぶどうの木に望みをおいて、すべてを委ねる人の姿。彼は、靴のかかとに棲まわれる神さまの姿を現してくれた人です。そして、世界で始めてのクリスマスを祝われる家畜小屋は、まさに人の靴のかかとのようなところなのです。
私たちも、洗礼者ヨハネのように、救い主の来られる道を整えるため、アドベントを過ごしています。
ヨハネに従った人々の群れほど私の後についてくる人は多くないかもしれません。しかし、私はキリスト者であり、しかも牧師としての働きに遣わされています。その中で出会った人に、また後に続く人たちに、私の神への信仰の姿、救い主イエスを迎える姿は、どんな姿で映るのだろうと思います。本当に、後から来る人たちが堂々と自分の働きができるような、そのために準備するような働き方をしているのだろうか。「わたし」を主張して、自分が今までやってきた習慣的なことや考え方に相手を合わせようとしていないだろうか。
そもそも、私の苦しみの日々に、私の靴のかかとに棲みながら私を支えてくださっている神さまに、私は本当に気づいているのだろうか。神さまは、救い主イエスをお送りくださり、ご自分の命を献げてくださるほどに私を支え、自分の足でちゃんと自分の前に置かれた道を歩むようにと整えてくださっているのに、私は、人の歩き方に口を出しして教えようとしたり、または、人が歩く道の方がもっと良さそうに見えて嫉妬したり、そんな歩み方ばかりしていたりはしないだろうか。
そのような自分の歩み方を正すためにも、洗礼者ヨハネのように荒れ野にまではいかなくても、もう少しこの世の便利さから距離を置いて、少し不便で貧しい日常に身を置き、その中で静かに祈ることが大切なのかもしれません。祈らざるを得ない生活を、あえて求め選び取るのです。
特にコロナ禍の中で迎えるクリスマスであるからこそ、このアドベントの日々、靴のかかとに棲まわれる神さまのことを毎日思い出したいのです。そしてさらに、私自身が、だれか苦しみ悲しむ人の靴のかかとに棲むことができたらと祈ります。