自由

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この世に存在するものを基盤にして信仰を組みだてることはできない。存在するものは必ず変わるから。知識的神学をベースに信仰を組みだてることも難しい。それらも時代と共に変化するから。キリスト者は、自分に与えられた賜物を信じ、それを通して神を見出して信仰を築き上げ、そしてこの世に奉仕する者である。その一人一人が集まる群れを「教会」と呼ぶ。しかし、この世に開かれ、どこまでもこの世に奉仕するはずのイエス・キリストの教会が、キリスト教的理念を掲げた人のものになっている。建物中心主義地に陥って、その所有権を主張する群れに化している。

「キリスト者は、この世の生活の形を決定するのに、何らの発言権を持たない。それは、キリストからキリスト者に贈られたはずのこの世からの自由を生きるためである」ボンヘッファー「倫理」。さあ、そのキリストが来られる道に、キリストを迎えるために出かけてみよう。真の自由を知り、得るために。

「 彼らはエリシャに言った。「御覧ください。僕たちのところに五十人の戦士がいます。彼らにあなたの主人を捜しに行かせてください。主の霊は彼を運び去り、どこかの山か谷に投げ落としたかもしれません。」しかしエリシャは、「行かせてはならない」と答えた。彼らがあまりにもしつこく願ったので、「行かせなさい」と言うと、彼らは五十人を送り出して三日間エリヤを捜させたが、見つけることができず、エリコにいるエリシャのもとに帰って来た。エリシャは、「行くなと言ったではないか」と言った」(列王記下2:9~22)。

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