12月24日 クリスマスイブ 説教

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ルカによる福音書2章1~20節

清しこの夜

みなさま、クリスマスおめでとうございます。

待ち望んでいた救い主イエスさまがお生まれになりました。この方こそキリスト、平和の君です。お生まれになった救い主イエス、平和の君でおられるキリストの故に、みなさまが幸せでありますように祈ります。

さて、今晩は、救い主イエスさまがお生まれになるまでの、ヨセフとマリアの愛について、それを通して神さまの愛について分かち合いたいと思います。

ヨセフとマリアは結婚をして一緒に暮らしていました。マリアのお腹はだんだんと大きくなってきます。そんなとき、当時イスラエルを支配していたローマ皇帝から全国民に勅令が出ます。それは、「みんな住民登録をするように」という勅令でした。

ヨセフの故郷はベツレヘムです。今住んでいるところはガリラヤ地方でした。ヨセフはベツレヘムまで行かなければなりません。その距離は、何日も歩かなければならないほど、遠い距離です。ですから、ヨセフ一人で行って登録を済ませることもできました。しかし先ほど読まれた聖書では、ヨセフはお腹の大きなマリアを連れて出かけました。

なぜヨセフはお腹の大きいマリアを、この遠い旅に同伴させているのでしょうか。一人で行ってきた方がずっと楽だし、早いはずです。マリアにとっても、親や親戚がいて住み慣れたところでお産をした方がずっと安心で安全です。旅路で何かあれば、生まれてくる子どもも母親も命が保証されません。

しかし、マリアとヨセフは、そのような危険や不安や恐れよりは、一緒にいることを優先します。つまり、お腹の赤ん坊と三人で一緒にいるということを二人は選択したのでした。家族だから当たり前と言うのかもしれません。しかし、この二人の決断には、それを越えたものがあります。

一緒にいる。どんな時も見放さずに一緒にいる。これは聖書がいつも強調していることです。なぜかというと、それが、人間に向けられた神さまの愛の姿だからです。どんなに罪が重い人でも、何度も迷惑をかけて周りを困らせるような人でも、神さまは見放さずに、友だちのようにずっと一緒にいてくださる。生きることになんの感動もなくなり、生きる力を失って、毎日が不安で、そして不平不満ばかりを並べるような人とも、神さまは一緒にいてくださる。本当は、嘘をついてばかりいて、恥ずかしくて顔をまっすぐに上げられないような私ですが、その私を、両手を広げて抱きしめ、大丈夫、安心しなさいとおっしゃりながら、一緒にいてくださるのです。それだけではなく、一人では担いきれない重荷や不安、心配や恐れを、一緒に背負ってくださるのです。

どんなに険しい道のりでも、わたしはあなたと一緒に歩くからと、そういう眼差しで近づいてきてくださる方、その方を、今夜、このクリスマスの夜、ヨセフとマリアの姿を通して、マリアから生まれる幼児を通して見せてくださっています。

ですから、今夜は特別な夜なのです。清い夜です。ご自分のすべてをかけて私たち一人一人の救いのために、神さま自らが近づいてこられて、私のような弱い者を包んでくださっていますから、今夜は、神と人が出会う聖なる夜なのです。

このような神さまの姿を見せてくれているマリアとヨセフは、だからと言って、これからの道のりが何事もなく平坦だったわけではありません。

結局、彼らは故郷のベツレヘムにはたどり着きましたが、彼らを迎え入れるところはどこにもありませんでした。親戚からも、宿屋からも、彼ら歓迎されませんでした。彼らが身を寄せたところは、寒い冬に風が吹き込む家畜小屋です。なんと、そこでマリアはお産を迎えました。

さらに、生まれた子の命が狙われるということを、ヨセフは夢の中で聞き、彼らは、直ちにエジプトへ逃げることになります。この家族は難民となったのです。そして、数年をエジプトで過ごしてからイスラエルに帰ってきますが、せっかく住民登録をしたベツレヘムには帰れず、ガリラヤのナザレの方へ隠れる思いで暮らし始めます。人間的には、なんと不幸な家族なのだろうと思う状況です。

しかし、このマリアとヨセフの歩みの中に大切なことがあります。ヨセフとマリアが、救い主イエスさまと一緒であるということです。親子として当たり前に一緒にいるのではなく、初めから、人間の理性では理解できない状況をたんたんと受け入れていく、その過程の中でマリアとヨセフから救い主イエスがお生まれになったのです。聖霊によって身ごもるというお告げに戸惑いながらもそれを受け止めたマリアと、マリアの体内の子は聖霊によって宿ったのだからマリアを妻として受け入れなさいという、夢でのお告げを聞いたヨセフは、マリアのお腹の子どものお父さんになる決心をし、三人は家族になったのでした。

人間が、聖霊によって身ごもるって、納得がいきますか。納得いきません。納得いかないことを、マリアとヨセフは、彼らの人生の中に受け入れたのでした。この過程がなければ、救い主は生まれなかったのでしょう。納得行かないことを、お告げを聞いて、葛藤をしながらも彼らは受け入れたのです。

私たちの周りにも納得いかないことばかりです。

去年の今頃はだれも予想もしなかった新型コロナが、世界に闇を作りました。どれだけのいのちが奪われたのかわかりません。どうしてこんなウイルスによって、こんなにも人間の暮らしが不自由になり、恐れなければならないのか、納得がいきません。

そのコロナの対策をしている政治家たちのやり方が納得いきますか。さらには、私自身の健康の崩れ、重い病、愛する者の病気や死…納得いきません。富を積み上げる人はどんどん富みが積みあがる一方で、貧しくされた者は余儀なく貧しくされる、こういう一方的なこの世の仕組みが納得行かないのです。どうして人種によって人が区別され、さらには差別されなければならないのか、納得いかないのです。私たちの日常には、人間の理性で受け入れ、判断できないような、納得の行かないようなことがどれだけあるのかわかりません。矛盾だらけです。

だからこそ、マリアとヨセフがそうであったように、私たちの日常の中にイエスという名の救い主を迎え入れて共に暮らすのです。その方は、私たちが考えるようには考えず、神さまが考えるように考えます。私たちは、いつも打算的で、利害関係の中で人間関係を結びます。しかし、神さまはそうなさいません。むしろ、ご自分のものをすべて私たちのために使い果たして、その命まで差し出してくださいます。この神さまの愛の具体的なお姿が主イエスさまです。この救い主イエスさまを、私たちの日常、私たちの人生、私たちの希望や夢の中に迎え入れ、一緒に暮らすことに私たちは招かれたのです。

その方が、今日、私たちに出会うために、生まれてくださいました。どんなに経済的に恵まれていても、どんなに貧しくても、どこでどのように暮らそうとも、幸せの秘訣は、この主イエスさまを自分の心にお迎えするということです。この聖なる夜、主イエスさまがこう語りかけておられます。あなたがどの道を歩もうと、決して一人ぼっちにはしておかない。たとえ、死の陰の谷を行くような苦しみの日々も、わたしはあなたと一緒にいる。さあ、歌いなさい、恐れず新しく歩き出しなさい。

望みの神が信仰からくるあらゆる喜びと平和とをあなたがたに満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

 

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