呼ばれている

Home » 呼ばれている
20210105_090331395_iOS

悲しくて先が見えない時がある。失敗したことを悔いる。思うように動かない老いる体のことでがっかりしたり、さらには先を見つめて死を恐れる時もある。平凡な日常が悲しみや悔しさや恐れる思いの中にある。もちろん、木漏れ日のようにこれらの合間にはささやかな希望や喜びも一緒にある。これらすべてが、呼ばれている。偉大な方の光ん中に呼ばれている。希望も喜びも悲しみも恐れも失敗も、何もかも偉大な方の光に照らされてこそ意味をなし、力が与えられるものだから。今日はこの呼びかけに導かれる一日。

「そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。『兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。』すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した」(使徒9:10-19a)。

カテゴリー