顕現後第4主日 説教
マルコによる福音書1章21~28節
飛ぶ鳥は後ろを振り向かない
藤沢の駅前を歩いていると、大きな木に宿っている鳥たちの鳴き声に圧倒されます。ある日の夕方、その鳥たちが一斉に飛ぶ様子を見ていました。夕日の射す空を隠してしまうほど大きな群れを成して飛んでいく姿。みんな同じスピードで、重なることなく間隔を保ち、一羽も列を乱すことなく整列して飛んでいるのです。小さい頃から訓練を受けているのでしょうか。
今まで数十羽の鳥がきちんと列を成して飛ぶ様子は何度も見たことがありますが、何百、いいえ千を超えるかもしれない数の鳥が整列して飛ぶ様子に、とても感動しました。
飛ぶ鳥は後ろを振り向かないそうです。飛んでいる途中で後ろを振り向くのは、その鳥の死ぬときだと。そもそも死を迎える鳥は最初から飛ぶ仲間に入らない、それが自然界の知恵なのでしょうか。
さて、今日は、本来なら皆が集まって新しい年の教会の宣教活動を話し合う、会員総会日でした。しかし、わたしが赴任して、未だにみんなが一つの場所に集まることが許されない状況が続いています。しかしそういう状況に置かれていても、わたしたちは、過ぎ去る時の中にとどまらないで、神の国の推進のために前進することを大切にしたいと思います。
その思いを込めて、今年の宣教指針として「主を畏れることは知恵の初め」という箴言の言葉を選びました。ここで言う知恵とは、霊性という言葉で置き換えることも、あるいは英知、悟りという意味としても表せると思います。つまり、主を畏れることから、主の民は、すべての面において生きる術をいただくということです。
この知恵、霊性のとても大切なひとつのことは「歩き続ける」ということです。その模範をイエスさまが示してくださいました。マルコ福音書のイエスさまは、ガリラヤからエルサレムまで歩き続けておられます。途中で忘れ物を思い出してガリラヤへ戻るとか、言い忘れたことがあってナザレに帰るとかなさいません。ひたすらエルサレムへ向かって歩き続けられます。
このことは、身体の面においても、内面の霊的なことにおいても、わたしたちに大切なことを示唆していると思います。歩き続けることは、体の健康のためにとてもいいことです。血圧が高い人や肥満の人にとって、健康法の第一は歩くことです。瞑想したい時、新しいアイデアが欲しい時、多くの作家や詩人、宗教家や科学者たちも、歩きます。そこでリフレッシュし、それは新たな気づきの時となります。
そして、内側の霊的な面においても、ガリラヤからエルサレムまで歩き続けるということは、日々十字架に向かって歩み続けるという深い意味があります。深い霊性や知恵は、私たちを歩き続けさせます。怠ることなく、み言葉に耳を傾け、黙想し、祈りを続けるのです。それを通してこの世での疲れを癒し、所有しようとする自分が、むしろ手放す者になり、それによって実は豊かになっていくことを知るのです。
イエスさまも祈り続けられました。ご自分の中には超越的な力があるから祈らなくても大丈夫というような歩み方はなさらなかったのです。常に歩き続け、祈り続け、ときには人里離れたところへ退かれて一人で祈られました。
さて、ガリラヤからエルサレムへ向かって歩き続けられたイエスさまは、今日、カファルナウムの教会に立ち寄られました。安息日だったのです。そこでイエスさまは説教をなさいました。その教えが、律法学者のようではなく、権威ある者としての教えだったので、みな驚いたと福音書は記しています。
そのカファルナウム教会に、汚れた霊に取り付かれた人がいました。汚れた霊は、すぐイエスさまのことに気づき、こう言うのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と。
この汚れた霊に取りつかれた人は、イエスが誰なのか、何のために来られたのかをよく知っています。それゆえ、自らの死を察した汚れた霊は「かまわないでくれ」と叫んでいるのです。
わたしは2012年に、韓国のある修道院で二週間の黙想会に参加しました。そのときに体験したことを皆さまに分かち合いたいと思います。
一人のシスターが黙想の指導をしてくださり、イエスさまのご降誕から十字架と復活までをていねいに毎日黙想するようにといわれました。イエスさまが生まれた家畜小屋の黙想が終わり、次はナザレからエルサレムへの旅路、その中でもカファルナウム教会でのことを黙想していました。どんな教会だったのだろうと思って、祈りの中で教会の扉を開いたら、その教会は当時わたしが牧会していた大宮シオン・ルーテル教会でした。扉を開いて中に入ったら、教会は薄暗く、椅子に座っている人々が首を横に曲げてみんな死んでいるのです。そして一人の人が説教壇の上で叫んでいるのです。「ナザレのイエスは神の子、救い主です」と。大きな声で、とても熱熱と説教をしています。なんとそれはわたしでした。わたしが知っていた知識をすべて用いて一所懸命にイエスさまを証していたのです。しかし、会衆席に座っている人たちは首を横に曲げて死んでいた。それは、わたしの知識を披露する説教によって、聴く人皆が霊的に死んでいることを表す光景でした。とてもショックでした。そして悔い改めました。そのときから、祈って得たもの、神さまからいただいたもの以外は決して説教しないと決めました。
つまり、わたしは知識を豊かにすることで、汚れた霊に取りつかれていたのでした。このカファルナウム教会の中に潜んでいた、汚れた霊に取りつかれた人と同じだったのです。彼がどうしてカファルナウム教会に潜んで居続けられたのか皆さん分かりますか。その知的レベルが、ファリサイ派や律法学者たちの説教と同様なレベルだったからです。
学識的な知識から学ぶことはたくさんあります。しかし、イエスさまの福音は知識ではありません。愛すること、愛されること、これがすべてです。そのためには、何も持たずに祈ること、そして、ひたすらみ言葉に聴き、黙想を繰り返し行うこと以外はないと思います。
汚れた霊に取りつかれていたこの人は、もしかするとわたしたちの姿なのかもしれません。頭では、イエスが神の聖者であることが分かっていますし、救い主であることも知っています。その事実とわたしの現実が、もしぴったりと重なっていないならば、つまり、わたしの現実の中に福音への驚きと溢れる喜びがないのなら、わたしは、教会に通い続けても、真の福音に出会ってないのです。
そのままでは、イエス・キリストの十字架と復活の現場であるエルサレムへ行くのがとても大変になります。何度も自分の過去や失敗した出来事や傷ついたあの事この事を思い出してはそこへ戻ったりして、前へ進むことができないのです。何とかエルサレムまでに行けたとしても、あの十字架の現場のゴルゴタの丘には行けないかもしれません。
イエスさまは、汚れた霊に命じて、その人から出てゆくようにと命じられました。それは、彼が叫んだからです。求めたからです。わたしたちが、本当の意味で神さまに出会いたいならば、彼のように、死ぬ思いで叫び求めねばなりません。そして、死ぬ思いで手放さなければならないものがたくさんあるのです。これは牧師であるわたしへの招きそのものです。
今年鵠沼めぐみルーテル教会に集うわたしたち一人一人が、知恵が増し、霊性が深められ、みんなが、イエスさまが向かって歩かれるエルサレム、十字架の道を、まっすぐに見つめ、歩くことができますように祈ります。振り向かない、もう後戻りはしない、まっすぐにイエスさまの後についてゆくのです。その決心があれば、きっとイエスさまは、その道を支え励ましてくださいます。
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