主の変容主日説教

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マルコによる福音書9章2~9節

ただイエスのみ

神秘的な体験をしたいという願いは、古い教会の時代から強くありましたし、数々の体験談もあります。しかし、その願いのゆえに、キリストに従う道からキリストを支配する道に転じてしまった人も大勢います。本来は、神秘的な体験をすることによって、謙虚になって仕える人に変わっていかなければならないのですが、人の欲望と執着が、その素晴らしさを勝ち誇るようにさせてしまうのです。

今日読まれた福音書は、高い山に連れて行かれた三人の弟子たちの神秘的な体験を記しています。

イエスさまの服が真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなり、死んだはずのモーセとエリヤが一緒に現れて、イエスさまと語り合っている。そんな非常に神秘的な光景に弟子たちは出会いました。きっと彼らにとって初めての体験でしょう。ですから、彼らは非常に恐れています。この驚きの体験のただ中で、ペトロがこうイエスさまに提案します。

「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(5節)。

「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった」(6節)と聖書は記しています。

きっと彼はその光景を目の当たりにして、永遠を感じ取ったのではないでしょうか。ですから、ペトロには、今見ている光景をつかんでおきたい、手放したくないという強い思いがあったと思います。カメラもない、スマホもない、今見たこの神秘的な光景を見逃したくありませんでした。

さて、主の変容の物語は5世紀頃からとても大切に記念されるようになりました。三つの共感福音書すべてに記されるほど、主の変容はとても重要な出来事として理解されていたのです。

それは、主の変容が主の受難と深く関係づけられているからです。モーセとエリヤが現れてイエスと交わした内容に関してマルコ福音書は記していませんが、ルカ福音書には、この二人が主の受難に関して話していたと記されています。

主の受難を告げるためにモーセとエリヤが現れました。旧約聖書に登場するこの二人に共通することがあります。二人とも自らの死を見せていないということです。モーセは、偉大な指導者としてイスラエルの民に尊敬されている人で、神さまと顔と顔を合わせて語り合った人です。しかし、彼には、カナンの地に入るのが許されませんでした。山に入って降りて来なかった、その遺体は見つかっていません。

そしてエリヤは、バアル預言者たちと闘った有名な預言者ですが、最期に、彼は、天から遣わされた火の馬車に乗って生きたまま天に上った人です。

このように、モーセもエリヤも、その自らの死を見せていない人たちです。その二人が現れて、イエスさまの受難についての話をしている。それは、イエスさまの死がただの死で終わるのではないという意味を表しています。つまり、イエスさまの死にはいのちの神秘が含まれているということ、そのことが暗示されているということです。

わたしたちは、イエス・キリストの十字架の死がただちに復活につながるということを知っています。しかし、その神秘の深さと大きさに、わたしたちは驚いているのでしょうか。死は深い闇を意味します。その深い闇がなければ命は輝かないのです。これが闇の神秘です。闇であるけれどもその中に命が輝いている。ですから、十字架の死が復活に直結するということに驚くというのは、恐れるような驚きではありません。希望と喜びに満ちた驚きであります。なぜんら、死という暗闇を通してわたしたちは神に出会うからです。神さまがおられるところに恐れはありません。

しかし、高い山に連れていかれた弟子たちは、自分が言っていることの意味が分からないほど、非常に恐れています。彼らは何を恐れているのでしょうか。

ペトロが提案する三つの仮小屋。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのための小屋を建てるという提案。

この提案は、ほとんどの人の中にある願いかもしれません。つまり、死にたくない、できれば永遠に生きたいという生への執着が、死を恐れ、死を汚れたものとし、死を遠ざけておきたいという気持ちを起こさせるのです。

エデンの園で、神さまは、人間が、取って食べるなと戒められた木から取って食べ、善と悪を知るようになり、次は永遠のいのちの木からも取って食べることを思い、アダムとエヴァをエデンの園から新しい地へ遣わされます。永遠に生きたいという渇望は、人間が神になることへの挑戦です。自分が神のように君臨したいという欲望が、どれだけこの世を傷つけてきたことでしょう。

三つの仮小屋を建てる提案をしている弟子たちを前にして、雲が覆いました。そして雲の中から彼らは声を聞きます。

「これはわたしの愛する子。これに聞け」と。

彼らが気を取り戻して辺りを見回すと、自分たちの傍にはただイエスだけがおられました。つまり、モーセもエリヤも彼らと一緒にはいません。イエスだけが彼らと一緒にいてくださいました。

もう一つの側面から考えると、モーセとエリヤは、律法と預言を表していると言えます。つまり、モーセは律法を表し、エリヤは預言を表しているということです。弟子たちは、これらの律法と預言の言葉によって育った人たちです。

しかし、その彼らの傍に最後まで一緒におられたのは、律法でも預言でもありません。イエスさま一人だけが彼らと共におられました。これはとても大切なことです。律法も預言も大切です。しかし、それらが人の死をどうすることはできません。死への恐れ、永遠への憧れ、それを実現してくださる方はただイエスだけあるというメッセージを彼らはここで受け取ったのでした。

つまり、イエス・キリストとわたしがひとつになり、イエスの死の神秘の中にわたしの死が包まれるときにのみ、人は死を超えて生きるのです。

そのイエスは、彼らを連れて山を下りられます。イエスの後についていくためには、栄光の山を後にしなければなりません。山を下りて歩まれるイエスさまの道、それはまさに受難の道、十字架の道です。十字架の道とは、病気で苦しんでいる人、一人では負いきれない重荷を抱えている人、職業柄のゆえに罪人扱いを受けて余儀なく差別を受けている人々のただ中へと入っていかれる道です。律法学者やファリサイ派のような人たちからは、非難される道です。しかし、「これはわたしあの愛する子」と宣言された神さまの御心を果たすために歩むイエスさまに従う道です。その道に永遠があります。この道でこそ死を超える力が与えられます。

今週の水曜日は「灰の水曜日」、その日から四旬節が始まります。

コロナ禍のただ中で迎える四旬節です。わたしたちは、約一年間を、コロナウイルスの脅威のもとで過ごしました。その中で、わたしたちは、自分が感染するかもしれないという恐れを抱き、不安の中で過ごしました。

しかし、その恐れと不安はどこからくるのでしょうか。おそらく自分のいのちを守ることへの執着からくるのだと思います。そして自分のいのちを少しでも脅かすと感じられるものへの差別や苛立ちが恐れや不安から生じます。コロナウイルスに感染した人や、医療従事者たちへの偏見と差別は、そのような執着が生み出しているとわたしは思います。

教会が、苦しんでいる社会の課題を担うためには、ペトロが提案する仮小屋的な教会であってはなりません。神さまを建物の中に閉じ込めることはできないのです。

今こそ、苦悩する社会の中で、苦しんでいる時だからこそ、教会が担うべき役割があります。慈しみ深い神さまの愛をもって苦しんでいる人の傍に立ち、小さなことでも担うということ。そのために、教会は、栄光の山を下りて、イエス・キリストが歩まれる受難の道、十字架の道を歩くのです。その道を離れて、恐れを乗り越える道はありません。謙虚に祈りながら、イエスさまの歩まれる道を一緒に歩みましょう。

今週から迎える四旬節の日々が祝福されますように祈ります。

 

ユーチューブは以下より。