四旬節第1主日 説教
野獣と天使とともに
マルコによる福音書1章9~15節
ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたイエスさまに、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえました。そしてすぐにイエスさまは、霊によって荒れ野へ追い出されていきます。新共同訳聖書は「送り出されて」と訳していますが、新しく訳された聖書協会共同訳聖書には、「追い出されて」と記しています。厳しい表現です。
「可愛い子には旅をさせよ」という日本のことわざを思い出します。しかし、最近、少子化が進む中、このことわざはあまり生かされていないようで、子どもにわざわざたくさんのお小遣いを渡して、安全で快適な旅をさせる親が増えているようです。
神さまの御心に適った独り子として、この上なく愛されたイエスさまが、洗礼を受けてすぐ荒れ野へ追い出され、そこで四十日間もとどまりながら、絶えずサタンから誘惑を受けておられます。四十日間も誘惑を受け続けることは耐えがたいことです。わたしなら、生きることをもうあきらめたいと思うほど辛いと思います。サタンからの誘惑だけではありません。イエスさまの傍には野獣もともにいたと記されています。サタンから受ける内なる試練と、野獣から受ける外からの危険が同時にあり、一時も気を休めることができない状況の中に追いやられておられることが分かります。
マルコは、イエスさまがどんな誘惑を受けられたのかについては、詳しく記していません。何も書かないことによって、読み手に、誘惑者サタンの執拗さや野獣の存在を想像させているのだと思います。そして、あえて読み手の想像に委ねることによって、読み手に自分の状況をイエスさまのそれに重ねるようにと招いているのかもしれません。
しかし、ここで大切なことがあります。
四十日間、断食の中でサタンの誘惑に耐えつつ、しかも虎視眈々と狙う野獣がそこにいる。しかし、そこに天使が一緒にいたというのです。そしてイエスさまに仕えていたと。
サタンも野獣もイエスさまに仕えるものではありません。むしろイエスさまを自分に仕えさせようとあの手この手を使って誘惑したり、都合が悪くなればイエスさまの存在を消したりしてしまおうと、虎視眈々命を狙うものたちです。
ですから、最悪な状況のただ中で、天使がいて、イエスさまに仕えていたというのは、わたしたちにとってどれほどホッとすることなのかわかりません。
さて、イエスさまが洗礼を受けられてすぐ追い出されていった荒れ野とは、わたしにとって何でしょうか。また、サタンの誘惑はわたしにとってどんなものでしょうか。さらに、イエスさまの傍に一緒にいる野獣とは、わたしにとって何でしょうか。
荒れ野については、旧約聖書の出エジプト記の中で、イスラエルの民が四十年間さ迷い続けたところとして記されています。
わたしたちの人生は荒れ野によく喩えられます。またはこの世を指して荒れ野と言う場合もあります。この世を生きることが、または一人の人の人生の道が、荒れ野のように険しく、歩き難くて、凸凹した道であることを表しているのだと思います。わたしたちは、人生の所々で、山のような悲しみや苦しみに出遭います。だれもそれを避けることはできません。これが荒れ野です。
その荒れ野の中に、わたしの人生のただ中に野獣がいるということ。その野獣とはいったい何でしょうか。
一緒に暮らすあの人やこの人のことを指しているのでしょうか。職場でわたしを悩ませているその人のことでしょうか。友達のような顔をしてわたしを脅かし、恐れさせ、わたしの弱さに付け込むあの人のことでしょうか。
しかし、野獣は荒れ野の中にいます。荒れ野であるわたしの人生の中にいます。そこには、わたしのほかにだれもいません。このわたし自身が、わたしと共に暮らす野獣なのです。
いつでもわたしを批判して、わたしのことを認めようとしないもう一人のわたしなのです。イエス・キリストの洗礼を受けて、常に真理の言葉によって新しい道が示されても、その道を蔑ろにして従わないわたしなのです。思うように物事が上手にできなかった時には、容赦なく自分を裁いて苦しめる、そのわたしのことなのです。
わたしの中には、あなたになったわたしが大勢います。そのあなたになったわたしがわたしを誘惑し、攻撃するのです。そのわたしは、野獣のようにわたしを獲物扱いし、この世で自分だけがもっとも不幸な人のように思わせて、いじめるのです。わたしにとっていちばんの敵が、こうしてわたしの中に共存するということです。
ですから、わたしの中にいて、わたしを苦しめる自分を見つめること、それがこの四旬節にわたしたちに課されたことの一つと思います。つまり、自分の内側をよく見つめて、ばらばらの状態になっている自分を一つにしてゆくのです。そのようにしてわたしはしだいに仕える者になってゆくのだと思います。野獣のままでは、イエス・キリストを知っていはいても、仕えることはできません。
自分を知るということ。イエス・キリストの道を歩むということは、自分を知るための道のりの連続であると言えます。その中でも、先週の灰の水曜日から始まった四旬節は、わたしを知るために一年に一度与えられた最もいいときと思います。今まで目を覆っていた自分を見つめ、その自分を福音の力で慰め、癒し、愛するようになる旅程。四十日間の歩みです。
どうしてそのようなことが可能なのか。それは、天使が共にいるからです。イエスさまの荒れ野での断食の日々に仕えている天使たちは、神さまから私たちにも送られています。わたしたちの人生の歩みのただ中にも天使が共にいます。
天使についてはいろいろと議論がありますが、ルターは天使の存在を認めています。一人一人には守護天使がついているというのです。わたしもそう思います。その天使が人の姿をして現れる時があります。わたしの場合は、幼稚園の子どもたちです。子どもたちから名前が呼ばれる時、子どもたちと聖書の話をするとき、子どもたちの歌声や遊びの声が聞こえる時、天使たちが傍にいると実感するのです。
この天使たちがわたしに仕えてくれているのです。野獣の顔をして怒りたくなるわたしをなだめ、思い通りにしたいと強引に自分を強いるわたしに、ゆっくり行こうと憩いの場を備えてくれるのです。
今日は、その天使たちの作品が展示されていますので、ぜひ覗いてみてください。
イエスさまは、荒れ野での四十日間の断食の祈りを、天使の支えに助けられて、祈りの時を終え、ガリラヤへ行かれました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と福音を宣べ伝えるためです。
しかも、このガリラヤでは、洗礼者ヨハネが福音を宣べ伝えて捕えられた直後でした。洗礼者ヨハネに従っていた人たちには恐怖がまだ残っているときです。しかし、イエスさまはそこから福音宣教を始められるのでした。
わたしたちの日常はガリラヤとそれほど変わらないと思います。コロナ禍の中で命を脅かされている恐怖感があります。明日への不安を抱えています。ワクチンの知らせは届いていても、実際ワクチンが手元に届くのはいつになるかわからない。そのただ中に共にいる隣人、わたしの一番近くにいるものが天使と思えるときに、私たちはキリストに仕えるものとなって従うのではないでしょうか。
わたしたちは、神さまに信頼された一人一人だからです。その信頼のゆえに、神さまはわたしたちをご自分の器として使わせたいのです。不安と恐れの中にいる隣人に、大丈夫!天使が一緒にいて支えてくれているから安心して!と一言を伝えられる良き隣人となっていくことを望んでおられるのです。わたしたちのささやかな一言が相手にとって確信につながる大きな言葉になるということを大切にしたいです。
ユーチューブはこちらから ⇒ https://youtu.be/Vy5IwN7Jl-w