四旬節第2主日 説教

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何の得があろうか

マルコによる福音書8章31節~38節

竹内章浩

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたにあるように。アーメン。

四旬節のこの大事な時に信徒説教をさせていただく、みなさまと御言葉を分かち合えることを心から感謝いたします。本日の説教箇所ですが2018年9月23日に大船教会で説教をさせていただきました。士反牧師が召天され、松川先生を鵠沼で聖餐をいただくために、私が大船で説教と司式をいたしました。本日のように背広を来ていきましたが、まだ残暑の暑い中で、汗をかいて説教をしたことをよく覚えています。その時の説教を振り返り、神様が十字架を背負うということを私によく考えて欲しいというお気持ちがあるのだと思います。十分に聖書がわかる、神様のことが分かるということはできませんが、全力を尽くして説教をして参りたいと思います。

それでは聖書を見て参ります。今日の聖書箇所は、イエス様が死と復活をお話しすること、受難予告といいますが、3回ある受難予告のうち、第1回目になります。その予告に対する弟子たちと群衆の反応が描かれています。

今日の福音箇所は「それから、イエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日ののちに復活することになっている」と始まります。この「それから、イエスは」の「それから」は今日の8章31節の前の箇所、マルコ8章27節から30節で、見出しで言えば「ペトロが信仰を言い表す」のことです。ペトロが弟子たちを代表して、イエス様のことを「あなたはメシアです」と言います。そのメシアとは、政治的指導者、

イエスラエルを諸外国から解放する王のことでした。

その弟子たちの思いを考えると、今日のイエス様の「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日ののちに復活することになっている」との言葉は、どれほど弟子たちに驚きを与えたことでしょうか。

イエス様の「はっきりと教える」という言葉は、口語訳では「弟子たちにあからさまに、このことを話された」という訳でした。

マルコ10章28節では「ペトロがイエスに「私たちは、自分のことは何もかもなすがままにして(※)、あなたに従って参りました」とあります。イエス様が宣教を始めたのは30歳とありますから、弟子たちについても、年齢は書いてはおりませんが、同世代であったり、イエス様より若い年齢であったと思います。その彼らは、自分の今までの生活をなすがままにして、イエス様についていく。イスラエルのローマからの解放を望み、そしてイエス様が王となることを望んでいました。また弟子たち、王に使えて、偉くなる立身出世の夢をもっていたと思います。群衆も少なからず同じ思いをもっていたでしょう。

※本文は「何もかも捨てて」捨てるはアフィーミーで「立ち去らせる、見捨てる、なすが

ままにする、免除する、赦す」の意味がある。後述のアパルネオマイとは違う。

そしてペトロはイエスを脇にお連れするという大胆な態度をします。32節 「ペトロはイエスを脇へお連れして、いさめはじめた」33節「 ペトロを叱って言われた」。 この「いさめる、叱る」は叱るという意味とともに怒鳴りつけるという意味があります。ペトロがイエス様を叱る、怒鳴りつける。それほどペトロにとって大きな衝撃であったのです。

しかしイエス様は聖書の中でも見られない強い態度でした。「イエスは振り返りペトロを怒鳴って叱りつけました「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と。

マタイ福音書ではこの言葉に付け加えて「サタン、わたしの邪魔をするもの」と記しています。

そして「ペトロはイエスを脇へお連れして、いさめはじめた。」については「脇にお連れする」と言う言葉は、この意味はそのまま「脇にお連れする」という意味とともに「招き入れる、自分の方へ引き入れる」という意味があります。

ペトロは脇へお連れした、そのことはイエスを「自分たちの思いの方向へ」招き入れいる、連れて行こうとしたのです。イエスはそのことを「サタン」と言い、そして「引き下がれ」と言います。サタンとは「神の敵対者、誘惑するもの、人間に害をなすもの」という意味を持ちます。

ペトロはサタンと言われました。もしここで私がペトロであったら、どうするでしょうか。私もペトロと同じようにイエス様を脇に連れて行ってお止めし、こい言ったと思います。

「イエス様、何をおしゃるのでしょうか。ユダヤの民たちの苦しみをどう思っているのでしょうか。あなたを希望としております。信じております。どうかダビデ王のようになってください。ついてきている群衆を憐んでください。あなたが頼りなのです」と、言うと思います。

しかし、その言葉の中には、こういう思いもあるでしょう。「弟子たちや群衆が失望したら、どうするつもりだ。群衆が騒ぎ出したら、どうすればいいんだ。」とも思ったことでしょう。私ならば、この後ろの気持ちが大きいです。

イエス様の思いを知ろうとせずに、自分の思いを貫(つらぬ)こうとしています。この自分の思いを貫こうとすること、これは誰にでもあるものではないでしょうか。

さて、証しをしたいと思います。今から丁度、10年前にスピリチュアルというのでしょうか。つまり宗教ではないけど、宗教のようなセミナーを聞きに出かけたことがあります。

そのセミナーの教えは心の中で「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉を思うと、それが、相手の心の奥につながり、また神様に繋がるというものでした。そして人生が良い方向へ向かっていく、良い方向へその願いが実現するというようなことでした。有名な作家が解説本を書いていて、一時期は書棚の売れている本に並び、有名なものでした。私は、興味を持って、そのセミナーに出かけてみました。宗教でないということが、私にとって行きやすいことでした。

その会場は、都心のセミナーホールでとても広い会場でした。若い人から、お年寄りまで、たくさんの人がいて、とても驚きました。その会場は映画館や

劇場のように後ろ側の席が高く、舞台が低い造りでした。そして、私の前の人、

数人のノートが見えました。そのセミナーの教えでは、願いは具体的に思い浮かべるためにノートに書いた方が良いと教えていました。

前にいた若い女の人のノートには「会社の業績があがりますように」と書いてありました。そして、その人は必死に祈っていました。どの人も少し俯き加減で必死で祈っていました。私は物見遊山ではありませんが、興味本意でセミナーに来た私と周りの人では温度差がありました。

セミナーは本で書いてあることをただ繰り返し話をしていました。セミナーは2時間でしたが、私は始まって30分ほどして気持ちが悪くなってきました。

このセミナー参加者の願いがかなったら、どうなるのだろうと。会社の業績がよくなったら、自分の願いがかなったら。その人はこのスピリチャルなことを続けるのだろうかと。

それより、もし、この人たちの願いが叶わなかったら、どうなるのだろうか。会社の業績が良くならなくて、会社が潰れたら。願いがかなわなかったら。前にいる人は普通の、どこにでもいる、どちらかというと真面目そうな人でした。

その人たちは何とか自分の願いが届いてほしいと、自分の心を貫こうとして

いるのだろうと思いました。

私はその会場にいて、このような心の声を聞くようでした。一人の一人の「自分の願いが叶うように、自分の願いがかなうように」と。そう「自分の思いを貫こう」という気持ち、一人一人の気持ちは幸せを求めて純粋な気持ちなのかもしれません。しかし、無我夢中で、神様に自分の思い貫こう、願いをぶつける姿、苦しみから逃れようとする姿、そして私のようにただ眺めていること。それは、人の欲の深さを感じて、会場の空気を悪くしているようでした。私はセミナー

前半がおわったときに、聞くことをやめて帰りました。

私には、私を含めてセミナーに出ていた人たちが、祭司長やピラトであったり、イエス様を「十字架につけろ、十字架につけろ」と言った群衆であったり、そして逃げて行った弟子たちの姿と重なりました。私はイエス様を十字架に架けるのを目(ま)の当たりにしたようでした。

そして、私は心の底から、こう思いました。イエスを十字架に架けたのは私であり、私たちであったと思いました。自分の思いを貫こうとしているときに、神様を自分の思い通りにしようとしているときに、私たちはイエスを十字架に架けているのだと思います。

聖書に戻ります。

イエス様は、その場におられた全ての人、弟子たちと群衆を呼び寄せて言われます。「わたしの後に従いたいものは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者はそれを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

さて主イエスは「わたしの後に従いたいものは、自分自身を捨てよ。そして自分自身の十字架を負え。そしてわたしに従いなさい。わたしの後に従え。」と言います。それが自分の命を救うことであると。

自分自身を捨てることの意味、これは物をゴミ箱に捨てるというように、自分を捨てる、無くすという意味ではありません。本文のギリシャ語は自分の現在の立場、置かれた状況を否定するというアパルネオマイという言葉です。自分の現状や「自分がこのようにありたい」という自分の期待を否定すること、「自分の期待や願い、そして想いを、一旦否定をしてみる」と言った方が正しいと思います。

もう一度、先ほどのセミナーのお話しに戻りますが、もし、この人たちの願いが叶わなかったら、どうなるのでしょうか。会社の業績が良くならなくて、会社が潰れたら。病気がなおらなかったら。「人生にはこんなこともあるよ」と神様を、また神様に祈ったことさえ忘れていくのであろうと思います。

では、わたしたち、キリスト者はどうなのでしょうか。わたしたちも願いを

言い、また祈ります。それらが聞かれない場合、私たちは「神がいない」というのでしょうか。それとも「仕方ない」と「人生にはこんなこともある」と考えるのでしょうか。

そうではないと思います。わたしたちは、その時に神様を見るのです。その苦しみにの中で、共に苦しむ神を見て、神様に出会うのです。十字架の上で、苦しむ神を見る。苦難にあってその苦難の中に共にいてくださるイエスに出会う。これがキリスト者と思います。

わたしたちがイエス様に呼ばれたのは、わたしたちが人生には苦難、苦しみが

あることを知っていることからだと、私は思います。そうひとり、ひとりには負いきれないほどの苦しみがあると思います。

苦しみの中で、イエス様に出会い、その言葉を信じて、その言葉に生きる、イエスの言葉と共に働く者として、わたしたちは働く。イエス様の僕(しもべ)となってイエス様の命が現れるように、苦しみがあっても豊かに恵みを受けるのです。

聖書には、イエス様に病気の人や苦しみをもった人が癒されました。マルコ5章では長血の女性の話があります。イエス様の袖にさえ、すがりつけば癒していただけると、そしてイエス様の袖にふれて、癒されました。そして、イエス様は

大勢の群衆から女性を探し、女性はイエス様の前に出ます。聖書の中の人は癒される、自分の願いが叶ったあと、イエス様と再び出会い、イエス様と真正面から向き合っています。ルカ22章で、イエス様の十字架の前から裏切るペトロに対して「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあたなのために、信仰がなくらならないように祈った。だからあなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」とあります。わたしたちのために、イエス様は祈ってくださっているのです。

さて、今日の説教題は「何の得があろうか」としました。この得という言葉は利益という意味や役に立つという意味がある言葉です。

自分の思い、利益を、自分の期待を一度否定し、御言葉に聴き、祈る。イエス様の言葉を心の中に宿すこと、それが大切なことではないでしょうか。

キリスト者として生きるときに、御言葉、聖書の教えと自分の思いが離れると思うこと、役に立たないと思うことも多いと思います。時には、御言葉が自分の人生に役に立たないと嘆くこともある私たちです。 わたしたちは弱く、時々心がふらふとしたり、考えがぶれたり、たちどまったり、逃げたりもするけれど、その苦しみの中で祈り、祈りの中でイエス様に出会い、立ち直ったら(何度も倒れるし、また立ち上がりするでしょう)、イエス・キリストの十字架を見つめて、歩みたいと思います。

神様はわたしたちをイエス様の言葉、いのちの言葉で導き、共に働くものとして、今週もそのひとりひとりが遣わされる場でイエス様の言葉と共にその愛をつたえるものとして、祈るものとして、遣わされたいと願います。

イエス様をを信じて、その愛に、いのちに生かされる恵みを喜びとしていけますよう、お祈りします。

お祈りします。

天の父なる神様、私たちはひとりひとり、貫きたい思い、願いがあります。

それは生きる望みから来るものであったり、人の幸せを願うものであったり

また苦しみが逃れる願いもあるかもしれません。もし、今日、どうしても叶えたい願いがある人がいましたら、願いを叶うことではなく、その思いが御心に叶う願いであることを祈らせてください。そして今、苦しみの中にいる人がおられたら、すでにあなたがおられ、わたしたちのためにイエス様が、祈ってくださっていることに気づき、苦しみから立ち直らせさせてくださいますように。立ち直ったら、イエス様の十字架を仰ぐものとして、そしてその愛の僕として仕えさせてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン