四旬節第3主日 説教
ヨハネによる福音書2章13~22節
心の春への道
この頃、雨が多く気温が少しずつ上がってきました。それによって、土の中の植物が芽を出し、花を咲かせ、春が近づいていることを知らせてくれています。
しかし、春が近づいているとはいえ北風はまだ吹き、冬の寒さが完全に去ったわけではありません。そんな中で咲く花たちがが、どんなに忍耐強いか。愛らしくほほえましい顔をしているけれども、北風にも負けないくらいの強さをもっていると思います。
四季の中で、命の豊かさや不思議さにもっとも触れられるのが、春なのだと思います。春は、死んでいるかのように見えていた木々の枝から新しい芽が芽生え、花を咲かせ、土の中に落ちた種や球根が芽を出す季節だからです。
しかし、その命の豊かさと不思議さを私たちはどれだけ味わっているのでしょうか。
土の中に隠されていた球根が芽を出す瞬間の土が割れる音を、私たちは聞いているでしょうか。芽を出したものが背丈を伸ばす様子や、花を咲かすときの歓喜に満ちた音を私たちは聞いているのでしょうか。
あの可愛いチューリップが花を咲かすためには、冷たく固い地面を破らなければならない、吹いてくる北風にあたりながら芽を出して、さらには、そもそも自分自身の皮を破らなければ芽を出すことは出来ない、その過程で、沢山の痛みを抱える。しかし、自分自身の中の尊い命を輝かすために、黙々と与えられている役割を果たす、その小さな命の前で、それらを観察するために、私たちは、留まる余裕をもっているのでしょうか。
春は、これら命あるものたちの、必死で一所懸命な姿を通して訪れます。しかし私たちは、月の数字が替わることや気温の変化という数字のものさしを通して季節を理解することが多いのです。文明の子になってしまっているのです。
春の訪れ、命の輝き、その豊かさと不思議さは、子どもの成長に似ています。傷つきやすい純真な子どもが、置かれた状況の中で、何も言わずにすべてを受けいれ、抵抗することも知らず、何も言えないまま傷つき、しかし必ず成長してゆく。黙々と与えられた命を生かすために、状況の中で耐え、すべてを委ねる。子どもたちの姿が、春の豊かさと不思議さを私に教えてくれます。
死者の中から復活なさったイエスさまは、子どものように、多くの傷を背負って私たちのところに訪れてくださると思うのです。そのイエスさまの姿は神さまの偉大さを帯びています。神さまの偉大さとは、とんでもない力ですべてを打ち破るような姿にあるのではありません。偉大というのは、純粋さや誠実さを言うのだと思います。置かれた場で多くの傷を負い、黙々とそれを受けいれ、しかし輝く命の道への歩みを決して諦めない、ここに神の偉大さがあります。
傷つきやすい神。多くの傷を負っている神。私たちが仰ぐ神は、十字架の上で茨の冠をかぶせられて苦しむ、イエス・キリストにほかなりません。その十字架のイエス・キリストを通して、真の命はもたらされるのです。十字架なしの復活はありません。
さて、先ほど拝読された福音書。イエスさまはエルサレム神殿に入られました。エルサレム神殿の境内では、人々が、羊や牛や鳩を売り、お金の両替をしていました。それらの状況をイエスさまは目の当たりにします。そこで、イエスさまは、「縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し」、鳩を売る者たちに言われます。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」と(15~16節)。
普段はあまり見られない、感情をあらわにし、大変怒っておられるイエスさまの姿が、本日の福音書の中にあります。
当時のユダヤ教の礼拝では、羊や牛が屠られ、祈りの誓願のために鳩がささげられたりしていました。また、献金は定められた貨幣に両替しなければなりませんでした。そういうことが礼拝を献げる神殿の境内で行われていたのです。
まあ、礼拝の始まる前の時間帯に、捧げものの売買や献金の両替ができれば、とても合理的なことかもしれません。しかし、イエスさまの感情的で激しいこの振る舞いを通して投げかけられているのは、本来教会とはどんなところなのかという、最も根本的な問いなのだと思います。
これは「わたしの父の家」であるとイエスさまはおっしゃっております。
他の福音書では、「すべての民の祈りの家」(マルコ)、「祈りの家」(マタイ・ルカ)と記されています。他の福音書はもっと厳しく、商売をしていた人々に向かって、祈りの家を強盗の巣にしてしまっていると強い表現を使って記しています。
教会が「父の家」「すべての民の祈りの家」という表現でわかることの一つは、それが個人の所有物ではないということです。みんなのもの、誰でも入って来て祈ることができる所。そういう意味では、一度も入ってきたことのない人でも、自由に入って祈ることができるということです。
そして、父の家、祈りの家と呼ばれているもう一つの意味は、留(とど)まるところであるということです。別の表現では、逃れの場、避難所と言えるかもしれません。この世の忙しさから逃れて静かに留まって癒しをいただく所、人々との関係や言葉から逃れて、イエス・キリストの癒しのみ腕に抱かれて、安らぎをいただくところ。再び元気をいただいて、遣わされてゆく所なのです。
その時に、教会はただの建物ではなく、イエス・キリストの体である生きた建物となります。イエス・キリストの十字架と復活の出来事を一人一人が体験し、新しい命に満たされる豊かな場となって行くのです。
私たちは、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を、皮膚で感じるようにいま知ることはできません。十字架の上でのイエス・キリストの思い、その痛み、苦しみのすべて味わうことはできません。死者の中から復活することも、頭で理解することすらできていないのです。
わからないから、私たちは、静かに留まってみるのです。特に、主の日にこうして教会に訪れたときは、心を神さまの方に向けて、新しい命がどのように芽生えるのか、小さすぎて目にもうつらないものが、どうやって死の力を破って芽を出すのか。私の頑なな心をどのように破って永遠のいのちが芽生えるのかに、静かに観察するときとして過ごすのです。
私たちの人生の季節は、冬が長いのかもしれません。特にコロナ禍の中で過ごしている今は、なおさら長い冬を過ごしているのかもしれません。しかし、一方で、春を迎えることも恐れているかもしれません。なぜなら、春を迎えるということは、傷や痛み、不安や恐れと向き合うことだからです。この大きな葛藤を経て、孤独な私が新たな出会いの中に、新たな命の中に入っていくのです。
そして、誰よりも、私たちのただ中におられる方、幼子のように静かに私たちの最も深いところにおられる方こそ、私たちが受けている傷や痛み、不安と恐れをそのまま受け止めて、傷ついておられるのです。一言の文句もおっしゃらず、黙々とわたしたちの受けるすべてを引き受けてくださっておられるのです。
だから、安心して、心の扉を開きましょう。私の傷はもはや私だけのものではありません。キリストが引き受けてくださっているのです。安心して、もたらされる春の温もりを味わいながら、私の心の中に芽生える命の鼓動に耳を傾けましょう。どんな音を出して花を咲かし、実ってゆくのか、一つ一つを観察しましょう。時間がないと嘆くときこそ、留まるときなのです。小さすぎて見えないようで、しかし確かにおられるキリストの現存に気づくために、静かに留まる時です。
そのとき、人間関係においても、自分自身の人生の営みにおいても、計算や両替のためのテーブルはもう必要でなくなります。この私は、このままの私でよしとされた、神さまにとっていちばん愛らしい姿の私ですから。私たちはイエス・キリストが住まわれる聖なる神殿なのです。
お祈りします。
慈しみ深い神さまは、今年も私たちに命が豊かに芽生える春をめぐり合わせてくださいました。感謝いたします。どうか、私たちが、その命豊かさに留まり、忙しさの中で受けてきた疲れが癒され、隣人関係において負ってしまった傷があるなら、癒されますように。孤独と思うときには、自らが心を閉じてしまっていることに気づきますように。小さな命の前で留まることを通して、イエス・キリストが私の深いところにおられることに気づきますように。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
ユーチューブはこちらより ⇒ https://youtu.be/RtqQ694scIM