四旬節第4主日 説教

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信じる者が皆

ヨハネによる福音書3章14~21節

信徒説教 加部佳治

3‐14「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」 『信じる者が皆、永遠の命を得る』そのために、イエスは世に遣わされた。

ヨハネ福音書の記者は、この章だけでなく、このフレーズをこのあと何度もイエスに語らせています。 「永遠の命」という単語はこの福音書に15回登場するとあります。

福音書の最後の方の20-31の見出しには、「本書の目的」とあり、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命をうけるためである。」

つまり、今日のこの箇所は、ヨハネ福音書の主題が記されています。

信じる者が皆、永遠の命を得る、救われる。 イエスを「信じるために」この福音書は記されたとヨハネは言っています。

「そして、モーセが蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」

第1日課 民数記21‐8 「主はモーセに言った。炎の蛇を造り旗竿の先に掲げよ」

神とモーセに逆らった民が、蛇にかまれ、その罪を認めて、神が語ったモーセの言葉を信じて、青銅の蛇を仰ぎ見ると、人々は蛇にかまれても命を得た。 人びとが「信じた」ので「救われた」とあります。

人が皆、イエスを信じて、永遠の命を得るためには、モーセの蛇のように、イエスも高く挙げられなければならない。

この「上げられねばならない」は、「十字架の上に上げられる」ということですね。つまり、「人がイエスを信じて救われるためには、イエスは十字架に上げられねばならない」「イエスの十字架の死」という代償により、私たちの救いがある。と書かれています。

福音書の後半 12‐32には、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。イエスは、ご自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」とヨハネは書いています。

また、第2日課 エフェソ2-8「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。「自らの力」によるのではなく「神の賜物」です。

わたしたちは、神さまの愛、そしてその愛を信じる信仰によって救われた、「信じること」により「救われた」とパウロも言っています。

そして、3‐16で再び、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

わたしたちが「信じる」ようになり「永遠の命を得る」ために、「独り子」を十字架に上げられた。 神様は、私たちが「信じる」ようになるために、そんな大きな犠牲を払ったのだ、とヨハネは伝えています。

つづく3-17で、神様がイエスを世に遣わされたのは、世が救われるため。とあります。 それなのに、そのイエスを私たちが「信じる」ようになるために、十字架に上げなければならなかった。

そうでもしないと、人は「信じることが出来なかった」と言っているように思えます

人は、イエスを「信じることが出来なかった」と。

今日の箇所の前、3-1から始まるユダヤ人教師ニコデモとのやりとりで、「新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」ファリサイ派のように、かつてモーセから与えられた「律法にしがみついていては、救われない」と、イエスは盛んに語っています。

ニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言います。

イエス「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」

こういうやり取りが続きます。

今回、ヨハネ福音書の箇所について、信徒説教の奉仕をするにあたり、私にとって普段あまり馴染のないこのヨハネ福音書のことを、少しは理解した上で臨むべきと、にわか勉強しようとしましたが、挫折しました。もともとヨハネ福音書は難解であると言われているのに、手にした註解書には、これまた難解な言葉が連なっており、益々「訳が分からない」状態に陥りました。

ただ、その中で、この福音書が記された、というか編集された時代背景を理解するべき。と書かれていたことが、印象に残りました。

ヨハネ福音書は、諸説はあるものの西暦100年頃に執筆されたということです。というか何人もの人に編集されたのが、その頃だったといわれています。その当時は、すでにマルコ福音書が正典として世の中にあり、何らかの形でそれを雛形にしたと考えられるものの、個々の記事の配置の前後関係などが、同じようにマルコを雛形にした、マタイやルカ福音書と違う部分があることから、ヨハネ福音書には、それが書かれた時代の空気が、あらたな編纂を生んだというのが、定説だと書かれてありました。

イエスの死後70年以上が経ち、リーダーシップを発揮したペトロやパウロがこの世を去り、ローマ帝国の弾圧は厳しさを増すと同時に、この時代の初期キリスト教会のひとつであるヨハネを中心とした共同体は、その地方のユダヤ人社会、そしてその指導者たちとの間で、相当激しい対立を経験していたとあります。

モーセの教え、戒め(律法)に忠実であると自負して疑わないユダヤ人社会に対し、イエスが与えてくれた愛と恵みこそが、真のイスラエルの教えであると闘うヨハネ共同体。この福音書は、その闘いの歴史の中から生まれたのだとあります。

イエスとニコデモ、拠って立つところが違う、まったくお互いを理解しようとしないように見えるこれらのやりとりは、ユダヤ人社会とヨハネの共同体という二つの共同体の当時の状況が描かれているのだ、とのことです。

それゆえ、ヨハネ福音書の記者は、人が「信じるようになる」「生まれ変わる」ことに固執し、それを強調する必要がありました。

「新たに生まれなければ、神の国に入ることはできない」

自分たちの価値観の中に生き、ユダヤ人社会の安心感の中に居続ける、律法にしがみついているニコデモは受け入れない。

そこにイエスは言い続けています。

そのまま律法の中にしがみついていては、救われない

2000年前のユダヤ社会の中で闘っている、ヨハネ共同体の人々の強い願いが、この福音書の中で、イエスを通して語られているのだといいます。

さて、それから2000年経って、今の私たちはどうでしょうか

私自身のことを言えば、イエスを「信じる者」としてここに立っているのでしょうか?

2000年前のニコデモのように、自分の価値観にしがみついて、自分本位に物事を解釈して生きているのは、私も同じではないか?とふと思います。

3月11日が近づいた先週は、テレビのニュースでは原発事故の悲惨さが頻繁に報道されました。こういう時、私たちは原発反対!と共鳴します。しかし、10年前からの日本中での原発稼働の停止により、今日本中で大型火力発電所が次々に建設されています。

私たちの豊かな生活のための電力が足りないからです。

それにより、日本でのCO2発生量はどんどん高くなっていますが、京都議定書などの国際協定を満足するために、日本は途上国など他国の排出量枠をお金で買って帳尻を合わせています。

「地球温暖化を抑制しなければ・・」と言いながら、自国では温室効果ガスをどんどん発生している。自分たちは豊かさを追い求め、地球全体で見れば、CO2が増えているのに、そんなことは報道されない、自分たちも見て見ぬふり。知りたいとも思わない。

原発を無くすのはもちろん大切ですが、そのための代償を、私たち自身が負わなければならない。地球が悲鳴を上げていることに、目を背けていてはいけない。自分が出来ることは何か?もっと真剣に向き合わなければいけない。

今日のヨハネ福音書の後半、20節 悪を行う者は、光を憎み、その行いが明るみに出るのを恐れて、光の方に来ないからである。

目を背けているのも、悪を行うことも、同じではないか?と、ヨハネ福音書は現代の私たちに語り掛けていると思います。

さて、私事ですが、今月末で勤め先を定年退職します。4月より引き続き嘱託として会社には残りますが、ひと区切りを迎えています。35年間の会社人生には、様々な想い出があります。楽しい想い出もたくさんありましたが、仕事ですから、そうでないこと、辛いこともたくさんありました。

しかし、今振り返って改めて思うのは、辛い時、大変な時には、その都度多くの仲間に救われてきたことです。この仲間とは、同じ会社の人に限らず、仕事を通じて出会った人々が皆、私にとっては仕事仲間と言えます。

頼もしい仲間が頑張っている姿に勇気づけられたり、もちろん相手の不甲斐なさに腹を立てたりもしましたが、でも、良いところも、悪いところも含めて、その人であり、その仲間一人一人のすべてに、同士とか仲間という意識を感じています。この信頼関係が、私の会社人生の宝だなあと、今つくづく思います。

少し前までは、定年退職で「今までのしがらみから一切解放される」「新しい自分を踏み出せる」と思っていました。

しかし、最近はそうではなく、今までのしがらみ、つまり仲間との信頼関係が宝だと、大切だと思います。そして、これは35年間の会社人生に限らず、私の人生は、周りの多くの人たちとの出会いと、そこで築かれた信頼関係で、成り立っているのだと、今は思います。

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とあります。

なかなか「信じることの出来ない」私たちのために、大きな代償を払われたとあります。

神様は、痛みを負われたのだと。

でも、なんとなくこの「世を愛された」が、今まで私にとってはピンと来ない、というか、ダメな私たちを「遠い天国から愛している」みたいに感じていました。少し上の方から愛している・・・ような

でも、もしかしたら、神様が「世を愛している」「私たちを愛している」のは、今私が、仲間に感じているのようなものなのか?と思ったりします。

創世記には、「神は御自分をかたどって人を創造された」 「塵でヒトを形づくり」 とあります。

その「神の似姿」として作られた人なのに、最初から「罪を犯して」そして「国を追われた」。

でも、そんな私たちを、神様は見捨てはしなかった。

エデンの園を追われたアダムとイブは、失敗作として「リセット」されて無くなってしまうのではなく、「自分がそこから取られた土を耕す」ことを命じられています。

創世記3‐19 「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで・・塵にすぎないお前は、塵に帰る」 そして「その土を耕せ」と言われている。

「自らを、もう一度耕す」ことの中で、塵である自分に気づき、そして罪を悔いることを期待されているのではないか? ダメなところも含めて、似姿である私たちに。

「神は世を愛された。」

「神様の愛」がそのような愛であるなら、私も、そういう神様との信頼関係を大切にしたいと思います。その独り子イエスを「信じる者」として立てたら良いと思います。

私が仲間を大切に思うように、神様が私たちを大切に思い、信頼してくれ、期待して見守ってくれている。ヨハネ福音書は、そう伝えているのではないかと思います。

新たに生まれなければ、生まれ変わらなければ、神の国に入れない。救われない。

「生まれかわる」のは、リセットではない。今の自分、本当の自分を、もう一度じっと見つめること。

今まで出会った周りの人たちとの信頼関係を大切にしながら、「自分が造られた土を、もう一度耕す」

そのことを思いながら、私自身の定年後の4月からを、歩んで行きたいと思います。

 

 

ユーチューブはこちらより ⇒ https://youtu.be/jtLQKQvybNc