いのちより大切なもの

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                四旬節第5主日     2021年3月21日(日)

ヨハネ12章20~33節

いのちより大切なもの

先週は幼稚園の第70回の卒園式がありました。32名の子どもたちがこの園から巣立って行きました。園児一人一人に修了証を渡すとき、担任の先生から名前が呼ばれ、その園児の夢が紹介されました。一番多かったのは、ユーチューバーになりたいことでしたが、アイス屋さん、ケーキ屋さん、お医者さん、漫画家、そして、横須賀線の運転手さんになりたい、野球のヤクルトの選手になりたい。とても具体的な夢をもっていることに感動しました。もっと感動したのは、お父さんになりたい、優しいお母さんになりたいという夢が紹介されたときです。

夢を職業に結びつけて考える私に、子どもたちのこの純粋な夢の世界は、大きな衝撃でした。私は私になるという夢をもってもいいのだと知らされました。子どもたちは宝箱のようです。これからどんどん成長していきます。どうか、宝箱に納められている賜物が素直に輝き続けるようにと祈ります。

さて、本日の福音書です。

祭りの時、何人かのギリシャ人が礼拝するためにエルサレムに上ってきて、「イエスにお目にかかりたい」と、フィリポに願うのでした。この祭りとは過ぎ越しの祭りのことです。弟子のフィリポのことを、聖書は「ガリラヤのベトサイダ出身」とわざわざ記しています。

ガリラヤはヘロデ大王の息子のフィリポが、ローマにへつらうような政治によっておこされた地方です。きっと、イエスさまの弟子のフィリポの名前の由来は、このヘロデ大王の息子のフィリポから取られたのかもしれません。そしてその名前はギリシャ風の名前です。ですから、ギリシャ人たちはフィリポに声をかけやすかったのではないかとも思います。

フィリポはギリシャ人たちをすぐアンデレのところへ連れて行き、アンデレは、この人たちをイエスさまのところへ案内します。フィリポとアンデレの賜物は、人々をイエスさまにつなげるという賜物です。彼らは、つなげる働きをしています。ナタナエルをイエスさまに出会わせたのもフィリポです。そしてナタナエルはイエスさまの弟子になりました(ヨハネ1:45)。使徒言行録では、フィリポがエチオピアの宦官に洗礼を授けたことも記されています。(使徒言行録 6:26-40) アンデレはペトロの兄弟で、ペトロをイエスさまのところに連れて来たのはアンデレです。(ヨハネ 1:35-42)

イエスを求めてきた人をイエスの所へ案内して、イエスに出会えるように取り次ぐフィリポとアンデレのような働きが、教会にとってとても大切です。悲しみや苦悩の中にある人が、イエスさまに会いたいと求めて教会を訪ねるとき、その人をイエスさまに取り次ぐ働きこそ福音宣教の要なのです。

教会に来れば当然イエスさまに出会えると思うかもしれませんが、それは想像以上にむずかしいことです。残念ながら、初めて教会に足を踏み入れるということには大きな勇気が必要なのです。勇気をふりしぼって教会を訪ねてくださる方々を、わたしたちは本当に愛し大切にせねばなりません。無条件でそういう方々を心からもてなすことに招かれているのです。

フィリポとアンデレは、ギリシャ人たちを自分たちの所に留めないで、イエスさまのところにお連れしました。

フィリポとアンデレから、ギリシャ人たちが訪ねてきたことを聞いたイエスさまは、そこでこのようにおっしゃるのでした。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(23~26)。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

以前、田舎で、稲の種まきをお手伝いしたことがあります。玄米一粒を、土が入っている小さなポットに蒔き数日置くと、そこから芽が出て稲の苗になります。その作業を教えてくださった方がこう話をしてくださいました。「ギャンブルの中でこれほど確実に儲かるギャンブルはない。つまり、たった一粒のお米から出た苗が、田んぼに植えられるとそこから20以上の穂が出てくる、そして、その穂の中にはさらに何百のお米の粒が実るのだ」と。

その話を聞きながら、種まきのたとえ話を話されたイエスさまのお話を思い出しました。道端に落ちた種と茨やアザミが生えているところに落ちた種は実を結ぶことができなかったけれども、良い地に落ちた種は三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶというお話でした。

たった一粒の種からこれだけの実りが与えられるのですが、それには条件があります。良い地に落ちることです。そして死ぬことです。

イエスさまご自身は、良い地に落ちて、死なれました。神さまという愛の大地の中に落ちて、その尊い命をささげてくださったのです。そのイエスさまを通してどれだけの人が救われたのかわかりません。神の国が見出され、永遠のいのちが示されたのです。罪の縄に縛り付けられて、来る日も来る日も苦しみの中でもがいていた私たちが、罪の赦しをいただき、真の自由の中で歩き出すことになったのです。

もしも、イエスさまが死ななかったならば、世界はどうなっていたことでしょう。

弟子たちが願っていたように、イエスさまがエルサレムで偉い政治家になっていたら、当時の貧しい人や苦しんでいる人たちに大きな影響を与え、歴史的な偉人として語り継がれたかもしれません。しかし、そこには、罪の赦しや真の自由はありません。神の国はないのです。永遠のいのちもありません。神と人との出会いは起きないのです。ですから、とっくに昔のこととして終わっていたことでしょう。

しかし、イエスさまは死なれました。死なれ復活なさったのです。死ななければ復活はありません。

良い地に落ちて死ぬ一粒の麦。それは、私の自我(エゴ)の死を意味します。私自身をこの自我に結びつけようとし、さらには相手をも私のエゴに結び付けて所有しようとする、その自分に死ぬということ。死ぬことによって自分自身に生きるということ。これは難しく聞こえるかもしれません。ですから、自分を知ることが大切です。私たちは、本当の自分を大切にしない傾向を強くもって生きています。外から学んだ概念的なものに自分を納めようとして、純粋な自分を蔑ろにしてしまいます。その自分こそ本当は生きるべき自分なのに、親の意見や社会の流れ、政治的な考え方、成功主義的な教会形成を求めて、自分を犠牲にしてしまうのです。

聖書は、こういう概念的で政治的で打算的な自分に死ぬように教え、それを知恵と述べます。知恵に生きる人はイエス・キリストを現します。イエス・キリストが現れる生き方の中で、人は幸いを見出し、実りが与えられる人生の歩みへと導かれます。今年の私たちの教会の宣教テーマです。「主を畏れることは知恵の初め」。福音の基盤はここにあるのです。

幼稚園の子どもたちは私にその知恵を毎日教えてくれました。子どもたちは純粋です。自我(エゴ)や概念や政治的とか、打算的なことはわかりません。神の国そのものです。私は子どもたちをイエスさまと思っています。

フィリポとアンデレも、子どものような人です。だから自由です。ギリシャ人だからとか、ユダヤ人だからとか、今イエスはスケジュールがいっぱいで忙しいとか言わないのです。

星野富弘さんを皆さんもご存知と思います。彼は、中学校の体育の教師になったばかりの年に、クラブ活動を指導していたときに墜落して頸髄を損傷し、手足が使えなくなります。病床にて洗礼を受け新しく生まれ変わります。その後、沢山の著書を残し、美術館も作り、今や世界的に有名になりました。その彼がこう述べます。

「命がいちばん大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きるのが嬉しかった」と。

この世の知識や社会的な経験や地位、経済的な豊かさや貧しさ、民族の違いやイデオロギー…これらは無意味ではありません。しかし福音の基盤ではありません。

しかし、これらによって生きていた自分がイエスさまの中で死に、イエスさまの中で生まれ変わるときに、私たちは気づかされます。自分が罪赦され、真の自由が与えられている尊いものであることに。三十倍、六十倍、百倍の実りは、福音が基盤になったときにもたらされるものであることも知らされることでしょう。

お祈りします。

慈しみ深い神さま。自我をはって自分を犠牲にするような生き方から、イエス・キリストの中で死ぬことの幸いに気づく歩みへと、私たちは導かれたいです。今週は、命よりもっと大切なことがあることに気づく日々でありますように。どうか、一人一人が背負っている苦悩や重荷がイエス・キリストと結ばれることによって癒され、それらがむしろ福音宣教の肥やしとして変えられ、用いられますように。十字架の主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

 

ユーチューブはこちらより ⇒ https://youtu.be/S5RK7b9Pi_k