上着を道に敷いて

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主のエルサレム入城・枝の主日説教

マルコによる福音書11章1~11節

上着を道に敷いて

本日私たちは、枝を携えて礼拝堂に入場し、昔、人々が枝を道に敷いてイエスさまを迎えたことを再現しました。今日皆さまが手に取った枝は持ち帰って、一年間、家の中の良く見える所に飾っておいてください。枝の色が失せてゆくのを見ながら、信仰もときにはその色が失せゆくことに気づき、いつも祈りの原点に立ち帰るのです。

イエスさまがエルサレムへ入城される際に、人々は棕櫚の枝を切ってきてイエスさまが通られる道に敷きました。人々が枝を敷いたことは四つの福音書が共通して記しています。

昔から、イスラエルの民は、自分たちを治める王様が通られる道に枝を敷く習慣がありました。枝を道に敷くということは、王様に対する敬意のしるしです。

ところが、今日、人々は、枝だけではなく服をイエスさまの通られる道に敷いています。服を道に敷くという行為は、通られる方に敬意を表すとともに、自分の全存在をこの方に献げますという決意の表明なのです。イエスさまの時代は、きちんとした布で作られた服を庶民が持つのは難しいことでした。服を持っているということは財産の所有を意味していました。その大切な服を道に敷いているのですから、来られる方をとても厚く、心から迎えていることがわかります。

ところで、今日読まれた新共同訳聖書訳で「服」と訳されている言葉ですが、新しく訳された聖書協会共同訳では、「上着」と訳しています。「服」と「上着」とは大きな違いがあります。上着とは、服と同じくその人の財産でもありますが、さらにはこの世的なプライド、または家柄を表すものでもありました。それほど大事なものを、道を通られる方のために敷くということは、その人の中にとても大きな変化が起きていることを意味します。つまり、その上着を踏んで歩まれる方のために、自分のこの世の誇りを捨てること、そして全存在を委ね、この方に従うことを表明しているのです。

この人たちは、イエスさまとどれだけの時間を過ごし、この決断に至ったのでしょうか。人の心の思いが決意として外へ出るまでには、それなりの時間がかかったのだと思います。本日エルサレムへ入城されるイエスさまを歓迎しているこの人たちは、ガリラヤからずっと従ってきた人たちです。イエスさまの公生涯が3年間だったと言われますから、約3年間イエスさまと一緒に過ごした人たちです。イエスさまと過ごす日々の中で、人々は、病んでいる人が癒され、神さまの言葉が解き明かされる現場に立会い、貧しく虐げられている人々へのイエスさまの心からの慈しみに心打たれたのです。心からイエスさまを尊敬するようになったと思います。そしてそこから信頼が生まれ、この人に自分を委ねても良いと思うようになり、その信頼のもとに人々はイエスさまの通られる道を準備しました。枝を敷く、上着を敷くという行為を通して、イエスさまこそ自分たちを今の苦しみから解き放ってくださる方、メシアであると信じたに違いありません。

しかし、イエスさまがローマの総督とユダヤ人の大祭司たちから尋問を受け、十字架刑が確定されると、人々は、大祭司から賄賂を受けとり、イエスさまを裏切る側に回ります。十字架につけろ!と叫ぶ側に回るのです。この人々はエルサレムへ上り、権力者や知識人たちに会ったのかもしれません。彼らの述べるそれらしき言葉を聞き、国や国民の暮らしの維持のため、また神を礼拝するためには、富と権力が必要であると教えられ、強い国と政治的・経済的な関係を結ばねばならないと、輝く神殿の境内の中で説得されたのでしょうか。

まさにその政治的権力や経済と結び付けられた宗教的な力のもとで、イエスさまは、民を扇動し、神を冒涜したという罪を負わされ、何の力も発揮できないまま鞭打たれ、苦しみの中で十字架刑に処せられて行くのでした。そのイエスさまのことを、いまや弱々しい一人の人間としてしか思えなくなったのでしょう。さらには、そのイエスと親しい関係にあると言われることを恥じて、恐れていたのかもしれません。

しかし、よく考えると、この人々が、イエス・キリストの十字架の道に用いられています。道に枝や上着を敷く行為はもちろんのこと、彼らの弱さを通してもイエス・キリストの十字架の道は備えられたのです。このことを知るとき、私たちは、むしろホッとするのです。みんなが揺らぐことのないしっかりとした人で、最後までイエスさまを裏切ることなく、一緒に十字架刑に処せられることを恐れない人々だったなら、私たちにとって十字架とは、また、イエス・キリストへの信仰とは、とてもハードルの高いものになったのではないかと思うのです。

人は土から造られたものです。多くの弱さをもっています。小さなことを恐れ、疑い、不安になって、裏切り、裏切ったことで悩んだり、落ち込んだりする、それが人間なのです。

教会の働きに遣わされつつも、都合が悪くなると神さまを疑い、イエス・キリストに従いたくないと思うような日々が、この私にもどれだけあるのかわかりません。一人の自分の中に矛盾する姿があるのです。

しかし、大切なことは、私たちのその弱さが、イエス・キリストの十字架の道を備えるために用いられるということです。私たちの弱さを通して、キリストの受難はもたらされ、その道の延長線上で復活の朝が迎えられ、永遠のいのちの道が開かれてゆくということです。

つまり、神さまは私たちの弱さを恥ずかしいものと思わないで、復活の朝を向かえさせてくださることによって、多くの弱さを抱えている私たちを高めてくださるということです。

使徒パウロもこのように述べています。

「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」(2コリント12:5)と。そしてこのように続けています。「わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(2コリント12:7~9)。

パウロに与えられていた「とげ」がどんなものだったのか、はっきりと知らされていません。そのとげは、彼のように有能な人、律法学者であり、ギリシャ語をも話し、ローマの市民権を持っていて、イエスさまの弟子の中で最も優れていた彼に、唯一与えられていた弱さでした。それさえなければ完璧なのに、というようなものだったのです。しかし、神さまは、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と語り、「このとげをわたしから離れ去らせてください」という彼の祈りを退けられました。

パウロと同じく私たちも、出来ることならば、何でも上手にできる自分を誇りたいと思います。弱さばかりが大きく写って、その自分を変えたいと思うときもあります。人と自分を比較するからです。自分の理想を実現しようとするからです。

イエスさまに従ってガリラヤからついて来た人々もそう思いました。そのような思いの中で、イエスさまの通られる道に枝や上着を敷いたりして忠誠を誓ったのでしょう。

しかし、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と。神さまが用いられたのは、人の中の弱さでした。イエスを知らないと否認し、お金と権力の力にそそのかされてイエスを十字架につけろと叫ぶ、その彼らの弱さを、神さまはイエス・キリストの十字架の道のために用いられたのです。

本日の福音書の中には、子ロバが用いられています。生きる知恵と知識があり、経験豊かな親のロバが用いられるのではなく、何の経験のない子ロバがイエスさまを乗せています。

神さまは、造られたものの弱さを通して働いておられます。私たちの弱さを大切にしてくださっています。私たちの弱さの中でイエス・キリストの復活の出来事は起きるのだと宣言なさっておられるのです。

今日から聖週に入ります。イエスさまの十字架の苦しみを一層深く味わうときです。私たちは何をもってイエスさまの歩まれる十字架の道を備えることができるでしょうか。私たちにとって枝とは何でしょうか。上着とは何でしょうか。そして枝や上着を道に敷きながら、同時に併せ持つわたしの弱さとは何でしょうか。このような問いを黙想しながら、この聖週を過ごせますように。

 

祈ります。

一人一人の弱さの中で働かれる神さま。私たちも自分の弱さを誇りにし、自分の弱さを通してキリストを表す人になりたいです。どうか、この聖週間、自分の弱さを労わり合い、聖なる方を宿す大切なものと識別することができますように。私たちをお導きください。十字架の主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

 

ユーチューブはこちらより ⇒ https://youtu.be/CS5P_xMPGmM