復活節第2主日 2021年4月11日
ヨハネによる福音書20章19~31節
わたしの主 わたしの神よ
女性たちから主が復活したと証言を聞いても信じない弟子たちは、ユダヤ人を恐れて部屋の中に閉じこもっています。誰かを恐れる、何かを怖がるということは、どれだけ人を縛りつけるものかわかりません。聖書には、恐れるなという言葉が365回も書かれるくらい、人は毎日、迎える日ごとに、何かに対する恐れを抱いて生きいるということでしょう。
私は烏が怖いです。昨年の春に、近所を散歩していて後ろから襲われて以来、烏がいるところを通る際にはびくびくします。近くで烏が鳴く声を聞くだけで、背筋が冷とするほど怖いです。
一昨日も烏に襲われました。国道沿いの川の端を渡っているときに、ギザギザとしたものが頭の上に着地したと思ったら、烏の足だったのです。驚きのあまりその場に立ち止まってしまいました。烏は道に降りて、「怖かったのだろう」といって私をからかうかのように、私の前をゆっくりと歩いて去っていきました。烏が建物の角を回っていなくなるのを確認してから、道を引き返して家に帰りました。
具体的な経験によって抱かれた恐怖感というものは、人をとても不自由にさせます。
弟子たちは、イエスさまを捕えて十字架につけて殺したユダヤ人たちを恐れています。愛する師を捕まって殺した人たちが、次は自分たちを捕まえに来ると思って、部屋から外へ出ることが怖くなりました。人を疑い、神を疑い、生きることが怖くなった、その彼らは、用心深くすべての扉に鍵をかけて閉じこもっています。ところが、こうすることが、復活の主に対する扉まで閉めてしまっているということを、人は気づきません。
しかし、きっと彼らの心の深いどころでは、女性たちから聞いた復活の証言が現実になることを願っているのではないかと思います。彼女たちの証言を素直には信じられなかったけれども、自分たちの力ではどうすることも出来ない恐怖感の中に閉じこもっていますから、何とかその状況から解放されたいという、魂の願いがあると思うのです。しかし人間は、神以外のものへの恐れのゆえに、神に対する扉まで閉じて、用心深く鍵までかけてしまうのです。
しかし、人間が閉じてしまったその扉を神が開かれます。復活の主が、閉めた扉を開けて入って来られました。そして彼らの真ん中に立ってくださいました。
甦られたお方は、ご自身の人間への道を、もはや人間によって阻まれることはありません。復活の新しい体は、私たちの体の場合のように、ご自身の活動を妨げることもなければ、制約することもないのです。
復活の主の現存、無限の方が有限の人間のただ中に立たれたとき、喜びがもたらされました。外から入ってくる人を恐れ隠れていた弟子たちは、外から入ってきた復活の主に出会い、喜んでいます。
主は言われました。「あなたがたに平和があるように」と。
この挨拶は彼らにとって特別な挨拶ではありません。生前一緒におられたとき、毎日交わされていた言葉です。しかし、死者の中から甦られた方が、いつもと同じく日常の挨拶をして真ん中に立ってくださったとき、「あなたがたに平和があるように」という日常の挨拶は、新しい挨拶に変えられ、特別な意味を持ちました。人間によって阻まれない自由の中で語りかけてくる挨拶は、すべてにおいて不自由な人間にとっては、喜びをもたらされる特別な言葉になるのです。
「あなたがたに平和があるように」。この言葉は、彼らに、自由に歩き出す力と勇気を与えてくれました。もはや彼らは、今度は、人々の恐れを追い払う働きに遣わされていきます。復活の主は彼らにこう告げられました。
「『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす』と。それから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」(21~23)。
復活の主の派遣の言葉。それは、弟子たちにとっても、今この言葉を聞いている私たちにとっても、とても大切な言葉です。二つの大きな大切なことがあります。
一つは、復活の主から人間が息を吹きかけられていることです。それは、創世記2章で、土くれから造られた人間に、造り主から息が吹き込まれて生きる者になったのと同じことがここでもなされているということです。復活の主が創造主の姿をしておられるのです。恐れの故に死に掛けている人間の萎びれた体に、聖なる息が吹き込まれることによって、人は新たに生まれ変わり、神と人のために奉仕をするという新しい道を歩む者に創りかえられました。
二つ目は、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と弟子たちに委託している言葉です。
すなわち、聖なる息が吹き込まれて遣わされる人間には、罪を赦す権限と、また罪を赦さない権限の両方が与えられるということです。
罪の赦しは、神さまの自由で純粋な恵みの賜物です。それゆえ、神の恵みによって生きる人には、罪の赦しの賜物が与えられています。しかし、心が頑なで、神を拒み、恵みを軽んじる人には、罪の赦しは閉ざされたものになるということです。
私たちは、人は誰でも赦されているという見解の中で、何でも赦そうと、人間的な思いで赦しの業を行おうとする場合があります。しかしそれは、神の赦しの業を人間の業に変えていこうとすることになる。そうすることで、神の恵みが安売りされることになってしまうことをここでは述べようとしているのではないでしょうか。
ですから、復活の主によって罪赦されて神さまの賜物をいただいた人は、罪の赦しの賜物を独り占めしてはならないということです。そのために、復活の主は弟子たちに、そして私たち一人一人に聖なる息を吹き込んでくださいました。私たちは、私一人が生きるための聖なる息を所有してしまってはいけないのです。今なお閉じこもっている人々に、神さまの自由で純粋な赦しの賜物を分かち合うように遣わされているのです。
その例が本日の福音書に記されています。
主の弟子の一人、トマス。彼は、復活の主が仲間たちのところに現れてくださったとき、その場にいませんでした。皆から主を見たと聞いて、きっとトマスは拗ねてしまったのでしょう。「『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない』」(25節)と言って、頑なに主の復活を疑いました。
その彼に、復活の主は現れてくださいます。そしてこう語りかけられました。
「『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい』」(27節)
主に語りかけられてトマスは告白します。「『わたしの主、わたしの神よ』」。
トマスの心の中の恐れや疑いの壁がすべて崩される瞬間です。命の源なる神を否定し、復活を信じず、生きることを疑い、挫折の中にいたトマスが、復活の主の出会いと語りかけによって、人間の業ではない、神の赦しの業を受け入れる悔い改めが、彼の内側で起きたのでした。神さまの自由で純粋な赦しの賜物を受け入れたのです。
「『わたしの主、わたしの神よ』」。
このトマスの告白は、神さまの罪の赦しの業の中に招かれた人の信仰告白です。人間の業からは決して出てこない告白です。もう恐れなくてもいい、外への扉を閉じなくてもいい、自分を人と比較しなくてもいい、人と神を疑わなくてもいい、自分のありのままを信じて生きていいという赦しの恵みを、トマスはいただいたのでした。
人間の業としての神の赦しを安売りしてはならない理由がここにあります。神さまの赦しの中には、神さまの自由と純粋さが含まれているからです。死を恐れずに、死を越えて愛する自由と、子どものように無条件に信じてすべてを委ねられる純粋さが、神さまの罪の赦しの業の中には含まれているのです。その赦しの業を行うために、私たち一人一人の中の恐れが復活の主によって取り払われ、疑いが喜びに変えられ、生きることが嬉しくなりました。もう、私たちは、赦しの賜物をいただいて、神の恵みの道に移っているのです。さあ、いただいた赦しの賜物を分かち合うために遣わされて行きましょう。