体の復活を信じます
復活節第3主日
体の復活を信じます
先週一週間、私は「従う」と言うことについてずっと黙想をしていました。従うとはどういうことなのだろう?私は十字架のイエス・キリストに本当に従っているのだろうか。自分勝手な従い方をしているのではないだろうか。今自分はどこにいるのだろうか。
なぜそのように自問したかと言うと、喜びのない私に気づいたからです。どうしてなのだろうと見つめているうちに、愛することをないがしろにして従おうとしていたのだとわかりました。この身体(からだ)を使って、実際の行いをとおして愛する、それを実践していない自分に気づかされたのです。自分の信仰がいまどこに立っているのか問われました。
愛することと従うことは同じことであるということ。それは、聖書に書かれている登場人物たちの姿を通してよく現れています。
今月のオンライン聖書勉強会では、旧約聖書のルツ記を学びました。ルツ記は、ベツレヘムに住んでいた一家が飢饉を逃れてモアブの地に移り住む物語です。夫と二人の息子に先立たれたナオミが二人の嫁を実家に帰らせて、自分はベツレヘムへ帰ろうとしているところから始まります。その際に、一人の嫁は実家に帰りますが、ルツは頑なに姑ナオミについてベツレヘムへ行こうとします。その自分を実家に帰らせようとするナオミに、ルツは次のように述べるのでした。
「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください」(ルツ1:16~17)。
とても美しい愛の告白です。ルツはモアブ人です。モアブにはお父さんやお母さんがいるはずです。また姑のナオミとは信仰の対象が異なります。しかし、それらのすべてを捨ててあなたと一緒に行き、死ぬときまであなたと一緒ですと言うのです。ルツのこのような決心に導かれてナオミはルツと一緒にベツレヘムに帰ります。ルツはそこでボアズという裕福な人と結婚をして子どもが生まれます。その子孫からダビデが生まれ、イエス・キリストの系図へとつながっていきます。
このような話は聖書のほかのところにもあります。
皆さんがよくご存知のダビデとヨナタンの物語です。彼らは親友でした。ヨナタンはサウル王の長男です。しかし、サウル王は自分より民に人気が高いダビデが嫌いで、その嫉妬は命を狙うほど激しいものでした。ヨナタンは賢明な人で、ダビデのことを親友として愛し、ダビデの命を父の手から守り、自分の大切なもの、王座さえも惜しむことなくダビデに譲ると言います。ダビデのことをとても大切にします。そのヨナタンが戦死し、その知らせを受けたダビデの悲しみはとても深いものでした。
ルツが姑ナオミを愛して従う姿、ダビデやヨナタンの信頼の中に表れる愛し合う姿。自分のものを相手のために捨てて、相手の道に同伴しています。この姿は、愛することなしに従うことは出来ない、宗教や民族の違い、価値観や考え方の違い、習慣や慣習、性格の違い…ありとあらゆる違いを超えるためには、愛するしかない。そして愛するときに従うこともできる。それがイエス・キリストの道です。イエスさまは、私たちを、ありとあらゆる違いを受け入れて愛してくださり、いつまでも、どこまでも付いてきてくださっています。それなのに、私は何をしているのだろうと思います。
さて、今日、復活の主は弟子たちのところに現れて、真ん中に立ってくださいました。そして言われます。「あなたがたに平和があるように」と。
しかし弟子たちは、イエスさまのことを亡霊だと思いました。それは、エマオの途上から帰ってきた仲間たちから、復活された主に出会った、それで戻ってきたという話を聞いていたときでした。しかし、彼らはイエスさまのことを亡霊だと思ったのです。
人間の常識が彼らの目をふさいだのでした。死んだ人が復活するはずがないという常識です。ですから、死んだ人が現れるのは亡霊の姿しかないという前提に彼らは立っています。亡霊には肉体がありません。
その彼らに主はお体を見せてくださいました。
「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」(39節)。
「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」(38節)。
死者の中からの復活されたイエス・キリストの体には、肉も骨もある、私たちと変わらない体なのです。このことは、「体の復活を信じます」と信仰告白をしている私たちにとても大切なことを教えています。つまり、死者の中からの復活されたイエス・キリストに従うということは、肉体の体をもっているものにのみ可能なことであるということです。霊魂不滅とか魂の復活の教えではないということです。
もし、魂の復活だけが大切であるならば、イエスはベツレヘムの家畜小屋でマリアから生まれなくてもよかったし、十字架の上で苦しみを受けて死ななくてもよかったのです。
イエスさまは肉体を持った人として生まれ、そして死なれました。そして、骨も肉もついた体をもって復活なさいました。それを信じ、告白し、その愛の道を実践に移すということ、それは、今、肉体を持っているこの私の体を通してのみ可能であるということなのです。
いつそれが可能になるのか。それは、礼拝の中の聖礼典を通してです。聖礼典とは、みことばと主の体と血に預かる聖餐式のことです。説教を聞き、みことばを深く味わい、聖餐に預かるときに、私たちは、イエス・キリストを自分の体にいただきます。そうやって受けたイエス・キリストを、私たちの体を通して現すこと。それが愛すること、従うことなのだと思います。そこに死者の復活が現実的なこととなってくるのです。これは概念ではありません。複雑な神学的見解でもありません。この目に見える身体、それをもって生きること、それをもって愛し、従うこと、それがすべてです。
つまり、「体の復活を信じます」という私たちの信仰告白は、「主よ、この私の体を通して、復活のあなたを表現していきます」という宣言なのです。それが実践に移されるときに、私たちの霊的な体は亡霊のように大地から浮いている状態ではなく、しっかりと大地に根ざしたものになるのです。復活の主は、不安におののく弟子たちの真ん中に立たれて「あなたがたに平和があるように」と宣言なさいました。イエス・キリストの体と血、またそのお言葉に預かるときに、不安や恐れや疑いにまみれている私たちにも平和が訪れます。なぜなら、聖礼典の核心は、イエスが私たちの真ん中に来てくださるという真理だからです。
今、コロナ禍の中だからという理由で、聖餐式が執行できなくなっています。しかし、聖餐の中にはこれだけ大切なことが含まれているのです。聖餐に預かるときに、私たちは「体の復活を信じます」との信仰告白につながり、キリストを現して生きる者とされます。その時、礼拝はただの儀式ではなく、神の国を生きようとする人に命の糧が得られる祝祭の食卓になるのです。
復活なさったイエスさまは弟子たちに言われました。
「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」と。
私たちにも語りかけられています。主の愛を分かち合い、従う道にしっかりと足を付けて歩きなさいと。そしてイエスさまは今、私たちの内側に立ち「あなたがたに平和があるように」と宣言しておられます。私たちの真ん中に立っていてくださっているということです。その平和を、もう一人の隣人に分かち合うために、さあ、出かけてゆきましょう。