行って実を結び、その実が残るように

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復活説節第6主日

ヨハネによる福音書15章9~17節

行って実を結び、その実が残るように

(信徒 與安史子)

この世の中には「愛」が溢れている、私はそう思います。

環境や考えによって自分の主観が勝っているとき、世の中にあふれている「愛」を感じることができなかったり、忘れたりすることがあることでしょう。しかし、私達が「愛」を覚えていられないときでも、世の中に「愛」は溢れており、神様の御恵みが常にあることを思い出せたら、と思います。

イエス様が「命令」という強い言葉を使って言われた「互いに愛し合う」大切さを自分自身の骨格の肉付けとし、その心得を自然に行動に移せるようになりたいと思います。

この箇所を読み進みますと、イエス様はこの後、逮捕され・連行され・尋問され・死刑の判決を受け・十字架へとむかっていきます。公生涯の『最期』に近い場面にあたるこの箇所を読んで、私が思い浮かべたのは「クリスチャン」を意識して認識した『最初』のころのことでした。イエス様の公生涯というレンジでは最期、私にとっては最初、という御言葉なのです。

私が、この聖書の箇所を読み、真っ先に思い浮かべたのは10歳の頃に参加したサマーキャンプでの事です。

日曜学校のサマーキャンプで夏休みに富士五湖のどこかであったでしょうか。八ヶ岳だったのでしょうか。場所の記憶は定かではありませんが、この鵠沼めぐみルーテル教会の日曜学校で、貸し切りの大型バスに乗って行った思い出があります。

何泊かのキャンプで、大きなバッグに荷物を詰めていきましたが、いよいよ帰り支度の際、荷造りがままならず、私は自分の荷物を納められずに苦労をしていました。その時、大平さんが「よかったらこのバックをお使いなさい」と、今でいうところのエコバックのような袋を差し出してくださいました。私は困っていましたので、このお申し出はとてもありがたく「ありがとうございます、お借りします。次回の日曜学校の時に持ってきてお返しします。」と受け取りました。しかし、大平さんは「私に返さなくていいのよ。これは貴方から、今の貴方のように困っている誰かにこのバックを返して差し上げてね。」とおっしゃったのです。私はこの時、強い衝撃のような感覚を受けつつ、思わず「わかりました、ありがとうございます、そうします。」と素直に受けたのです。そして「クリスチャンってこういう人のことを言うのだろうな」と思いました。それは、まるで乾いたスポンジが水をスーッと吸い込むように、自分の中にすんなりと沁みこんでいったのでした。行った場所や何泊だったかなどは記憶が定かではなく「子供の頃の楽しい思い出」なのですが、ほんの数分の大平さんとのやり取りは、今でも鮮明な記憶となっています。ナイロンのような軽い生地で、折りたたむと小さくなる、臙脂(えんじ)のような赤系の千鳥格子のような模様のバッグでした。

この経験はその後の私の人生に勇気と喜びを与えてくれました。

大平さんが私におっしゃったとおりに、そして行ってくれた通りに、気付く範囲の小さな行いではありますが、私がなにかをできる「状況」の時に小さな助けを求めている「状況」へ手を差し伸べ、そこにかかわる方からの喜びや感謝が、私に大きな喜びと小さな勇気をいつも与えてくれるようになりました。私の行いは本当に小さなことです。

例えば通勤電車の中で座りたそうにしていらっしゃる方に声をかけるという小さな勇気と、席を譲るという小さな行動、そして嬉しそうな様子でお礼を言われた時の喜び。

例えば雨の中車を運転しているときに濡れながら幼い子をつれたお父様を見かけたとき、路肩に車を止めて声をかけるという勇気、傘を差し上げる行動、親子でお礼を言ってくださったときの小さなうれしさ。雨に濡れないように二人で寄り添い一つの傘に入っている仲睦まじい親子の様子を、走り去る車中のバックミラーごしに、見ることのできる喜び。

大平さんがまかれた種の一つを私が受け取り、そして気が付いたときに播けるようになりました。

大平さんが私に示してくれたこの小さな愛は、10歳の私にとってとても大きな体験でした。聖書に書かれているイエス様の言われた「互いに愛しあう」とは人と人との「互い」であると同時に、状況と状況との「互い」であるという体験をすることができたのです。さらに、親以外の大人である大平さんが10歳の私を「貴方」と呼んだことも大きな体験でした。大人の人に「貴方」と呼ばれ対等に扱ってもらった体験も強い印象が残ったひとつの事柄なのだと思います。このような経験が、私にとって聖書の箇所「もはや、わたしはあなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。(~中略~)わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」というところを素直に読ませてくれるのだと思います。思いがけず驚くような方から言われる「対等」な扱いや宣言に畏れつつも素直に受け取ることができるのです。

先ほども申し上げましたが、本日の福音箇所を読み進みますと、イエス様はこの後、逮捕され・連行され・尋問され・死刑の判決を受け・十字架へとむかっていきます。

イエス様はこうなるとわかって弟子たちにお話をされたのでしょうか。それとも、いつどうなっても悔いのないように、いつでも「最期」を意識した公生涯を全力で歩む中での一場面であったのでしょうか。聖書に書かれているイエス様の言葉は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と「使命」感を私たちにもたらし、「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」と「逆らう余地なく従わせる伝達」を私たちにしました。この「互いに愛し合う」「愛」とはどのようなものなのでしょうか。

「愛」にはいろいろな「愛」があり、その表現も様々ですが、私は日本語で様々な「愛」を考えたいと思います。

親子の間の「愛」や友情をつなぐ「愛」、恋人や夫婦間の「愛」はどの方も想像するのに容易です。では、容易に思いうかびにくい「愛」にはどんなものがあるのでしょう。

「慈愛」というものはどうでしょう。いつくしみ、かわいがるような深い愛情を意味しますが、さらにはめぐみや心をかけて大切にすること、大切にする心、というものも意味します。

人は時に「主観」が勝ってしまい、客観を失う場面があります。このような時、「世の中に愛が溢れている」ことを忘れ、そう思えなくなることでしょう。

つまり、イエス様は個人の主観にとらわれていつくしみや心をかけて大切にすることを忘れないよう使命を持つよう諭(さと)したのだと私は理解しています。

有名な論語に

「吾十有五而志于学(われじゅうごにしてがくをこころざし)、

三十而立(さんじゅうにしてたち)、

四十而不惑(しじゅうにしてまどわず)、

五十而知天命(ごじゅうにしててんめいをしり)、

六十而耳順(ろくじゅうにしてみみしたがい)、

七十而従心所欲不踰 矩(しちじゅうにしてこころのほっするところにしたがいてのりをこえず)。」というものがあります。

意味は、

「私は十五歳のときに学問を志し始め、

三十歳にして独り立ちをし、

四十歳で迷うことがなくなり、

五十歳のときに天命を理解し、

六十歳のときに人の意見を素直に聞けるようになり、

七十歳の時にようやく自分の思うままに行動をしても人の道を踏み外すことがなくなりました。」

というものです。

私たちクリスチャンや、この教会に今集っておられる方々、そして、この場にいなくともこの教会に連なっている方々はどのように働くことができるでしょう。神様の恵みを知り、愛されていることを知り、人を愛することをおぼえ、互いに愛し合う行いを知る、そして物事や状況を客観し、いつくしみや心をかけて大切にする行いを身につけること。孔子の論語のように、「思うままに行動」したとき、無意識のうちにその行いが「互いに愛し合う」ものであり、神様の御心にかなうものでありたいと考えます。

神様が自分の隣にいると感じることができるならば、神様から愛されていることを忘れず、大きな愛を受けながら、小さくとも自分のできる行いを取り続けることができると思います。

困難な中にある時、自分が弱っているとき、悲しみや苦しみの淵にいるとき、悲しみや苦しみの中にある時、主観が勝る自分となっていることでしょう。しかし、いつもとなりに神様がいてくださることを忘れないでください。神様が隣におられることを思い出してください。そうすれば、愛がすぐ近くにあることを知ると思います。

 

お祈りします。

天にいらっしゃいます私たちのお父様。

今日、こうしてここに集い、貴方様に祈りをささげることができるということに感謝いたします。

私たちは、命をもって公生涯を全うしたイエス様をとおし、互いに愛し合うことを覚え・身につけ・行いをおこし、それらが貴方様の御旨にかなうものでありますよう、お見守りください。

困難の中にいる方々へ、貴方様の御恵みを感じることができる時をお与えください。

このつたなき祈りをイエス様の御名をとおしておささげいたします。アーメン。

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ユーチューブはこちらより ⇒ https://youtu.be/EGljOWcX3AI