喜ばしい交換
喜ばしい交換
マルコによる福音書4章26~34節
ルターハウスに畑が出来て春を迎えたときに、他の牧師たちや学生たちと畑起こしを始めた頃、ある方から、「野菜作りは土作りから」と言われました。畑作りに関して何も知らない私に、この言葉は野菜作りの指針のようになりました。しかし、時間の余裕がなくなってくると、丁寧な作業ができなくなります。すると、ちゃんと土は私の怠ったことを素直に表してくれます。実りがあまりよくないのです。土に対して根拠のない期待をしていた自分を反省するばかりです。
今日イエスさまは成長する種のことを通して神の国を表してくださいました。
「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」(26-29節)。
「土はひとりでに実を結ばせるのである」。つまり、土の中には、蒔かれた種を成長させる力が潜んでいるということです。だからこそ、土をちゃんと整えることが種の成長には欠かせません。
しかし、土作りのベテランの農夫でも、土に種を蒔き、そこから芽が出て成長しても、いったい種がどうやって芽を出して成長するのかわからない、イエスさまはそうおっしゃるのです。それは、神の国という土がひとりでに芽を出させ、茎に成長させ、穂を作ってそこに豊かな実りを結ばせるということ。ここに神の国の神秘があります。どんな専門家でベテランであっても、人には隠されている神の領域、人の思いをはるかに超える豊かな世界です。ですから、私たちが少しでもその神の神秘に気づくために、じっと見つめる必要があります。
最近、私のトレーニングコースが江ノ島から新林公園に変わり、新林公園を時々訪れています。町の中の公園が深い森をなしていることに先ず感動しました。この頃、公園の森の中の所々に山百合がきれいに咲いています。写真を撮ったりしてその前に留まってじっと眺めていると、百合から語りかけられます。「どこから来たの?」、「鵠沼から」。「楽しいの?」、「うん、とても清々しくきもちいい」・・・そうしているうちに自分が百合の花びらに包まれているようで、自分から百合の香りが放つような、とても幸いな気持ちになります。そして、さえずる鳥の声や汗をぬぐう風の優しさに気づき、そこが楽園のように思えるくらいになります。
公園を下りて、スーパーのヤオコーが見えてくると、今晩何を食べようと考え始めてしまいますが、自然界でのこうした時が私には泉になり、働きの原動力になっています。
私たちは、自分は自分の人生という畑のベテランだと思いがちです。各々多少の長さの差はありますが、私の人生はこうだったと、自信を持っていえるくらい、具体的に知っているつもりです。
しかし、イエスさまは、「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」とおっしゃいます。
つまり、自分の人生だからと知っているつもりでいるけれども、私たちは、自分の命の芽生え、命の成長、命が実を結ぶ段階の具体的な営みに関して、わからないのです。何歳の頃にどんなことが起きたというようなことは言えるでしょう。しかし、その出来事の中で、私たちのいのちが神の国に向かって成長するように一所懸命に働いておられた神さまの存在にどれほど気づいているのでしょうか。
私たちにはわからないことばかりです。
鶏がどうして朝一番に鳴くのか、わかりません。生まれたばかりの赤ん坊がどうして泣くのか、わかりません。学校から帰ってきた子どもが部屋に閉じこもって出てこないわけが、わからないのです。自分が、ある朝起きていきなり泣き始める、どうして泣くのか、泣いている自分もわからない。どうして人が生まれ、そして死ぬのか、どこからが始まりで、どこまでが終わりなのか、私たちにはわからないのです。それでいいと思うのです。
しかし、世間は、わからないのは愚かなことと教え、私たちは、多くの情報的な知識を収めることで、わかったつもりでいます。
ですから、話すよりは聞くことが大切なのです。ひたすら自然界の声に耳を傾けること。知っているつもりで判断してしまうのではなく、毎日出会う家族であっても、朝起きたら初めて出会う人のように挨拶をし、名前も知らない旅人に出会ったかのように、その人の中の不思議さを観察して心の目で見つめるのです。
土作りのベテランは、畑に蒔いた種から芽が出るまでじっと観察して見つめます。蒔くのは同じ種で毎年同じ作業をしていても、新芽との新しい出会いを楽しみにしているので、待つのは心がときめくような豊かな時間です。それは、知らないことを知らないままにしておく、耕す人の知恵なのだと思います。
バプテスマのヨハネがヨルダン川で人々に洗礼を授けていたとき、ファリサイ派の弟子たちが来てヨハネに問いかけました。「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」(ヨハネ1:25)と。するとヨハネは答えます。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(ヨハネ1:26-27)。
ヨハネはイエスさまのことを指し示しました。「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」。このヨハネの言葉は、今日、私たちにも語りかけられています。私たちの中には私たちが知らない方がおられるのです。私たちの人生を耕して、命を生きる豊かな畑に耕すために、その方はご自分の良いものをすべて差し出してくださっています。聖霊の息吹を注ぎ、与えられた賜物を通して、私たちの人生の営みが神の国になるように一所懸命に支えておられるのです。
今まで悲しい日々や苦しい日々もありました。どうして自分だけがこんな目に遭うのだろうと、神さまなどいないかもしれないと疑う日々。それはただの苦しみや悲しみではなく、私たちの中におられる方に気づく扉だったのです。その扉から神さまの所へ入ってゆき、すべてを神さまに委ねる入り口だったのに、私たちは自分で解決しよう、または逃げようとしてあれこれと悩む日々をすごしていたりはしなかったでしょうか。
ですから、もしかしたら今も、過去の数々の苦しみや悲しみが固まりとして残っていて、それらが今の私の幸せを壊すほどのトラウマになっているとするなら、それは、未だに扉を見つけていない証拠でしょう。
そしてそれは、私たちの中におられる方に飲み物や食べ物を差し上げないで、その渇き果てておられる姿に気づいていないことになります。私の畑を耕して、私を通して神の国を広げようとしておられる方が、私に必要とされずに追いやられ、渇いておられるのです。私の中には、もう一人の自分が神さまよりも強い姿をしているので、休むことなく黙々と私の畑を耕しておられる神さまに意識が向かないのです。
神さまは、人間の側が何もしないのに勝手に働かれる方ではありません。神さまは人格的な交わりをなさる方です。私たちが、この世的なものの力に頼って身勝手な歩みをしてしまうのを神さまはお望みにならず、帰ってくるのをじっと待っておられます。気づくように、悟るように、悔い改めるまで、静かに待っておられるのです。
神さまの働きと人間側の応答があって神の国は成立します。
そのことをマルチン・ルターは、「喜ばしい交換」という言葉で表しています。つまり、キリストの豊かさと私たちの貧しさ、キリストの義と私たちの罪とが交換されて神の国が現れると言うのです。
私たちの人生は、私たちの中におられる神秘なお方の中に包まれています。そして、そこでひとりでに成長します。息を止めなければ聞こえないくらいの静けさの中で成長しているのです。私たちが死ぬときまでその成長は止まりません。そして、私たちが死んでも、ひとりでに成長する命の営みは、私たちの死を通して、私たちが信じたキリストを証するのです。
どうか、その方と一つになって共に生き、共に働くことによって、私たちの周りに、もっと豊かに神の国を広げる歩みができますように。
望みの神が信仰からくるあらゆる喜びと平和とをあなたがたに満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。父と子と聖霊のみ名によって。
ユーチューブはこちらより ⇒ https://youtu.be/-vwOByw7M-U