向こう岸に渡ろう
聖霊降臨後第4主日(信徒説教)
向こう岸に渡ろう
鵠沼めぐみルーテル教会信徒 竹内章浩
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン。
本日の福音箇所 マルコ4章35節からと次の5章全体は奇跡を語っている箇所となります。マルコ福音書の最初の1章や2章でも奇跡が行われた箇所があり、病人を癒したり、悪霊を追い出ししています。4章35節からと次の5章全体ではその書かれている内容が
詳細になっていることが特徴といえます。何が詳細かというと、イエスと弟子や登場する人々との会話からその話の箇所の情景が思い浮かべられることです。
今回の聖書箇所の舞台はガリラヤのカファルナウム、ガリラヤ湖の北西岸にあるこの街の、ガリラヤ湖畔です。4章1節で「イエスは再び湖のほとりで教え始められた。
おびただしい、群衆が、そばに集まってきた。そこでイエスは船に乗って腰をおろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。」とあります。そのイエスさまが群衆を教えられ、夕方になってきた。そこから今日の聖書箇所がはじまります。今日は5章1節から20節の「悪霊にとりつかれたゲラサの人をいやす」も含めてお話ししていきます。
今日の聖書箇所は最初にイエスさまから「向こう岸へ渡ろう」と弟子たちに呼びかけられます。そして弟子たちは群衆を後に残して、向こう岸に船で行きます。船は何隻かの船で渡ります。すると激しい突風が吹いてきます。そしてイエスは船の艫(とも)、船の後ろの方で枕をして眠っておられます。弟子たちはイエスを起こして「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言います。イエスさまは起き上がって、風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と言います。すると風はやみ、湖は凪、波が無い状態になります。 イエスさまは弟子たちに言います。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」そして弟子たちは非常に恐れて、「いったいこの方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言い合う。そういう聖書箇所です。弟子たちの言葉が、臨場感あふれる言葉だと思います。直訳ですと「先生!あなたは関心がないのか、私たちが滅びることを。」となります。死、「いのちが無くなる」そのことへの恐怖を思います。
さて、今日の説教題は「向こう岸に渡ろう」としました。私は戸塚教会の清水先生にならって、説教をつくるはじめに、その聖書箇所を読んで、説教のテーマとなりそうな言葉を選んで説教題にしています。今日、私はイエスさまが、「何故、向こう岸に渡ろうと呼びかけたか」、そのことと、わたしたちの姿を重ね合わせていきたいと思っています。
今日の説教題にした「向こう岸に渡ろう」ですが、向こう岸はギリシャ語では「向い側」、つまりこの湖をとおして見える向かい側の岸で、「向こう岸」そのままの訳と言えます。
次の「渡ろう」という言葉、「渡る」という言葉は少し考えたいことがあります。この言葉は「ディエルコマイ」という言葉で「通過する、通り抜けていく」という意味があります。イエスさまはこの湖を「通り抜けて渡ろう」と仰います。 この後に嵐となる湖をイエスさまは「通り抜けて渡ろう」とイエスさまを信じるものに呼びかけたのです。
ガリラヤ湖の嵐は昔から知られており、ユダヤ教の教えが書かれている本のタムルードには冬の時期に「カディム」と呼ばれる東風が吹くと気温を一気に10℃ほど下げ、それが湖に吹き渡るとうずまき状の風、旋風(つむじかぜ)が吹き嵐になると書かれています。イエスさまはそのような嵐が吹くところを通って、向こう岸に行こうと呼びかけたのです。イエスさまや弟子たちは湖が嵐になることがある、その気象変動があること、それをご存知であったと思います。
さて、聖書を見て参りたいと思います。湖で嵐に出会った弟子たちの姿は、どうだったでしょう。イエスの弟子たちはこのガリラヤ湖の漁師がいたことから、船の扱いは慣れているでしょうし、嵐にあったこともあるでしょう。しかし、このときの嵐は自分たちの力でどうにもできないことでした。そして、最後にイエスさまにすがりつきます。嵐で船に入ってくる水をかき出したり、船が波にさらわれないように、船を漕ぎ、全てをやり尽くした後に、忘れられていたイエスさまに呼びかけるのです。そしてイエスさまは波を叱り、湖は凪になります。
そしてイエスさまは湖を渡り、向こう岸であるゲラサ人の地方に着きます。するとすぐに汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来ます。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできない、彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていました。そう、誰にも相手にされない人でした。イエスさまが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言い、たくさんの汚れた霊は出て、豚の中に入って、二千匹ほどの、たくさんの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死にます。そして汚れた霊に取りつかれた人は正気に戻ります。それを見た豚飼いの人たちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせ、その地方の人々はイエスさまに、その地方から出て行ってもらいたいと言います。イエスさまは、また船に乗って帰ろうとすると、汚れた霊に取りつかれた人はイエスさまに一緒にいきたいと言います。イエスさまはそのことをお許になりませんでした。そして、こう言われました。
マルコ5章 19節「イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」20節「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。」
マルコ5章 19節を直訳すると「すると、イエスは彼に許可しなかった。そうではなく、イエスは彼に言う。「あなたの家の親族たちのところに行け。そして、あなたは彼らに知らせよ。主があなたに行ったことを、そして、あなたを憐れまれたことの全てを!」となります。
マルコ19節の「憐む」という言葉は、普通の辞書で調べると可哀想に思う、不憫に思うという意味ですが、ギリシャ語で「エレエオー」という言葉、動詞で、「その人の悲しむべく状況をみて、そのことから生まれる心情」と具体的に書かれていて、「その人の気持ちに入り込んで」、「その人の苦しみを自分のものとして」という言葉で考えて良いと思います。
また「知らせなさい。」ということは、その憐んでくださったことをただ知らせるのではなく、その憐んでくださったことを心の中に持って生きる。憐んでくださったイエスさま、神さまの心の中にいることを表しているのではないでしょうか。その人はイエスさまと別れ、イエスが自分にしてくださったこと、そして自分を大切にしてくださったことを告げ知らせた。そのことは、その人が光の子としてその生涯を歩んだことと言えます。
今日(こんにち)聖書を読んでいく上で、この湖の嵐、ゲラサ人の地方のことは、人の住む社会であったり、人の人生のたとえとして考えられます。そして、昨年からのコロナ禍は大きく社会を変え、大切な人をこの病気で亡くしたり、健康を失ったりした方が多くいます。また会社やお店が潰れたり、職を無くしたり、学生の方ならば、一生懸命勉強して学校に入ったのに、学校に行けずに、先生や友達と触れ合えない、無機質な日々を送る方もいます。そう、多くの人にとって、この社会を見ても、その人生を考えても暴風雨、嵐が来ているときだと、思います。
今日の聖書箇所はイエスさまを信じていれば、暴風雨や嵐が来ないことを示しているのでは無いと思います。またイエスさまを信じていれば、暴風雨や嵐が来ても、心配することが無くなることでは無いと思います。この現実としてコロナ禍だけを考えても、その苦しみ、不安、悩み、それは本当に苦しいことと思います。
しかし、今日、私は、主イエスから「向こう岸に渡ろう」と呼びかけられていること、この嵐の海に踏み出して向こう岸に渡ろうとの、言葉を聴きたいと思います。それは、イエスさまが弟子たちとともに、何故、嵐に踏み出したか。何をイエスさまが大切に思ったかを考えることになります。そして、イエスさまが向こう岸で汚れた霊に取りつかれた人を癒した時に言った言葉、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」を聴きたいと思います。
マルコ12章28節には「最も重要な掟」という聖書箇所があります。イエスさまは聖書の中で最も重要な掟、命令は2つだと言います。「「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 『隣人を自分のように愛しなさい。』と言われます。
イエスさまが向こう岸で汚れた霊に取りつかれた人を癒した時に言った言葉、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」またルカ22章では、十字架にかかる前の主の晩餐で、イエスさまを三度知らないとこれから言うペトロに対して「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 そう、私たちは不安という嵐に会う時、心は乱れます。そのときにまず、神さまは私たちのために祈り、そして「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と私たちを導かれるのです。 今日、私たちは神さまの愛に招かれ、呼びかけられています。隣人を自分のように愛すること、わたしたちは、その愛しか、苦しみや悲しみ、そして死を乗り越えることはできません。愛のみがこれを乗り越え、生き様を変えることができるのです。
さて前にも話をしたことがあることですが、「愛の反対の言葉何か」という質問がキリスト教の本で出てきます。皆さまも聞いたことがあると思います。「愛の反対は無関心」という言葉です。エリ・ヴィーゼルという1928年生まれの米国のユダヤ人作家でノーベル平和賞受賞者の言葉でした。当時はハンガリー領であったルーマニアのシゲトという町に生まれ、第二次世界大戦でナチス・ドイツによって1944年に強制収容所へ送られ、アウシュヴィッツで囚人番号A-7713の刺青を左腕に彫られました。母と妹はガス室送りとなり、行動を共にすることができた父も辛い環境に耐えられず、ブーヘンヴァルト強制収容所にて終戦を迎える前に命を落としています。
ノーベル平和賞受賞した1986年の10月27日、雑誌のインタビューでエリ・ヴィーゼルさんが「愛の反対は無関心」という言葉をお聞きください。
愛の反対は憎しみではない。無関心だ。
美の反対は醜さではない。無関心だ。
信仰の反対は異端ではない。無関心だ。
生の反対は死ではない。生と死への無関心だ。
マザーテレサの言葉に「大切なのは、どれだけ多くをほどこしたかではなく、それをするのに、どれだけ多くの愛をこめたかです。大切なのは、どれだけ多くを与えたかではなく、それを与えることに、どれだけ愛をこめたかです。」という言葉があります。
今日、神さまは、私たちに、多くの人では無く、今、私たち一人ひとりが大切と思う人に
その人の気持ちとなって、愛を込めていくことを望み、導かれます。多くのことをすることではなく、小さくとも愛を込めていきることを望まれます。愛は「ほほ笑みから」と言います。どうか大切な人にほほ笑みを、またコロナ禍で、なかなか会うことが困難かもしれません。どうかその人の心に小さな花を咲かせるように、ほほ笑みでるような優しい言葉をかけてあげてください。また心からお祈りしてあげてください。
お祈りいたします。
主よ、私たちは人生の大波に出会ったときに、あなたのことを忘れ、自分のしたいようにし、そしてどうしようもなくなったときに、あなたのお名前を呼ぶ、誠に弱いものです。
しかし、あなたは、その弱い私たちのために先んじて祈り、導かれます。そして何よりも苦しみのその船にともにおられます。どうか主よ。弱い私、私たちですが、あなたの祈りに合わせて共に祈れますように。そして、祈りに合わせて、あなたの心を、私たちの心として、どうか「立ち直ったら」兄弟姉妹を力づけ、またあなたが私たちを憐み、してくださったことを告げしらせること、告げ知らせるこの教会を支える一人として用いてください。主イエス・キリストの御名によって アーメン。
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