魂の空腹を満たすもの

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マルコによる福音書6章30~34節、53~56節

魂の空腹を満たすもの

預言者たちが活躍していた昔、イスラエルにはたくさんの預言者がいました。しかし、皆が正しい預言者ではなく、神さまに御旨を求めて祈ることをしないで、神さまに聞いたかのように語り、王様や政治家たちの機嫌をとるために語った偽預言者たちがいたのです。そういう偽預言者のもとで、民は、魂の渇きが満たされないまま傷つき、散らされました。魂の渇きを放っておかれて、神さまとの関係づくりをしてもらえなかったのです。神さまとの関係が正しく保てなくなり、国はだんだん弱くなり、強い隣国に攻められ、民は捕虜となって連れていかれるようになりました。さらには、エレミヤのような本物の預言者は、偽預言者たちの嫉妬の対象となり、訴えられ、命さえ狙われるようなこともたくさんありました。

先ほど拝読されたエレミヤ書23章の中には、羊の群れを散らすその偽預言者たちへの、神さまの悲しみの言葉が記されています。「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」(1節)。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」(2節)と。

これは私にとってドキッとするお言葉です。神さまに罰せられるような牧会をしていたりはしないだろうかと、先週は自分の牧会者としての歩みを振り返った一週間でした。神さま、私には足りないところがたくさんありますが、どうか罰せないでお導きくださいと祈りつつ、今ここに立っています。

しかし、続けて神さまはエレミヤにこのように述べられます。「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」(3~4節)と。

傷ついて引き裂かれた者らを帰らせて、帰ってきた者らを通して宣教の業をされると、神さまは約束しておられるのです。傷ついた者から新しい者が生まれ、数を増やすのだと宣言しておられるのです。人間的に考えるなら、元気な人、もっと力のある人を通して働かれるのではと思いますが、神さまは傷ついたものを選んでおられます。

Nsay ki la on Twitter: "How these people did illustrations in the entire Good  News Bible (edition) by only drawing few lines here and there that make too  much sense!!! 😂😍🙌🏾 https://t.co/sXmOEjmYnN" /本日の福音書の中にも、エレミヤの時代と似たような状況が描かれています。人々がとても渇き果てている様子です。魂が渇き果てているのに食べものがなく、さ迷わざるを得ない人々。人々はイエスさまと弟子たちに会うと、どこまでも彼らを追いかけています。イエスさまは弟子たちを休ませたいと思っておられますが、人々は休む間もくれません。イエスさまはその人々を見て、「飼い主のいない羊」のようだと深い憐れみの心をかけられました。そして、舟の上からいろいろと教え始められます。

このイエスさまのお姿。イエスさまはご自分のことを、「わたしは命のパンである」(ヨハネ6:35)。「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」とおっしゃっております。

「わたしは命のパンである」。「わたしは命のパンのようなものである」とおっしゃらずに、「わたしは命のパンである」とおっしゃっておられるのです。それは、ご自分が命そのものである。つまり、イエスさまはご自分こそが命の糧、命を養うための食べ物だとおっしゃるのです。そして、そのイエスさまを食べることで人は飢えることも、渇くこともなく、怯えることも、迷い出ることもなくなると宣言してくださっています。

今日の福音書では、大勢の人がこのイエスさまに出会っています。人々はイエスさまから分かち合われるパンの味がどんなに美味しいものか、夏の日照りの中の冷たい水のように、魂の渇きを満たす尊い糧であることを、出会いを通して知りました。ですから、イエスさまのことをどこまでも追いかけています。

飼い主のいない羊のように、イエスさまを追い求めてどこまでもついてくる人々。その人々の渇き。

人はなぜ渇くのでしょうか。渇きとはいったい何でしょうか。

人には、常に、自分を創られた創造者と一つになりたいと言う憧れがあります。それは、私の命の源を知りたい、根源的な愛に出会って愛されたいという憧れです。深い所からの渇望です。人はその渇望を満たそうとして、遠い旅をするときもあります。哲学や宗教学的な研究に没頭したり、またはお金で欲しいものを買い求めてその渇きを満たそうとしたりします。親しい人を通して満たそうとする場合もあります。しかし、どちらの方法もその渇きを満たすことはできません。

その典型的な例がマタイ福音書の19章にあります。ある金持ちの青年の話です。彼は、たくさんの財産を持っていても、永遠の命はお金では買えなかった。つまり、渇きを満たすことは出来なかったのです。彼はイエスさまを訪ねて、どうしたら永遠の命を得ることができるでしょうかと尋ねます。するとイエスさまは、持っている財産を売り払って貧しい人々に施しなさい、それから私に従いなさいと勧めます。金持ちの青年は悩みながら帰りました。持っている財産が多すぎて、それをすべて手放す勇気がなかったのでしょう。

多くの財産を持っていても、存在の深い所から湧き上がる渇きを満して自分を満足させることは出来なかった。むしろ、所有している多くの財産が渇きを満たすことに邪魔になっていました。財産そのものが永遠の命を得ることを妨げていたのです。

空っぽになってイエス・キリストの道に従うことのほかに渇きを満たす道、つまり永遠のいのちを得る道はないというイエスさまのお勧めを、私たちはどのように受け止めますでしょうか。私たちは、渇いているのでしょうか。存在の底からの渇きに気づいているのでしょうか。

私たちは、誰も、生きることに疲れています。特に、今コロナ禍の中、みんな疲れています。小さい頃からの傷は癒されないままです。豊かで安定しているようで、心の中は不安と恐れに満ちています。美味しいものを食べている時は幸せと思いますが、その思いは瞬く間に消えてしまいます。私の中の深いところに渇きがあるのです。その渇きが満たされれば、疲れも、傷も、不安や恐れもなくなって、本当の平安の中を生きるようになりますが、そこまでたどり着きません。なぜなら、金持ちの青年のように、あまりにも多くのものをもっているからです。それは、財産だけではなく、多くの知識や情報、または悩みや将来への心配、これらすべてを私のものとして握り締めているのです。

テゼ共同体の創始者のブラザー・ロジェは、「キリストは、何よりも単純素朴な者に近い」と言います。単純素朴な者、それはどういう人のことでしょうか。子どものような小さな者、明日が来るかどうか、明日も生きられるかどうかの保証さえないくらい貧しい人、決して自分を大きく見せない謙遜な人、さらに、それなのに人のために自分のありのままを分かち合って生きようとする人のことです。

この人たちは、経済的に富んでいて社会的に力がある人から見たときには、取るに足りない、当てにもされないくらいみすぼらしい人なのかもしれません。しかし、キリストは、それらの者に最も近いというのです。今日の福音書の中でどこまでもイエスさまに付きまとっている人々のことです。エレミヤに言われた、渇きが癒されないまま傷ついて散らされて行った人々のことです。

私たちのことです。イエスさまは、その私たち一人一人に向かい合って、ご自分の命を分かち合ってくださいます。食べなさい、ただで食べなさい、わたしを食べて平安になりなさい。そして、わたしに従いなさい、と。

復活のイエス・キリストがご自分を差し出してくださっています。イエスさまも、見捨てられて、傷ついて、十字架の上で引き裂かれた経験を持っておられます。それゆえ、キリストは私たちの傷や渇きをよくご存じなのです。私たちの渇きを癒すものがこのキリストの道にある、それを分かち合うために今日も主は私たちをご自分の道に招いておられます。

 

ユーチューブはこちらより ⇒ https://youtu.be/8pCZPOfC8GE