愛するという戒め
平和の主日
ヨハネによる福音書15章9~12節
愛するという戒め
オリンピックの真最中、8月の初日が平和の主日です。日本で、8月に、オリンピックが開催される最中、平和の主日を守るということは、意味深いことと思います。たしかにオリンピックが開催されていなくても、8月でなくても、私たちは日々の暮らしの中で平和を作り出すようにと、常に主の平和の中に招かれています。しかし、特にオリンピックやコロナ禍の中で今日はいつもより真剣に平和について一緒に考えたいと思います。
オリンピックは、スポーツを通して世界に平和をもたらすことを究極の目的としています。1896年に始まって、それ以来世界各地で開催されその目的を果たしてきました。にらみ合い、決して仲良くしようとしない国々の人々が一つの方向を見つめて熱中し、感動し、心を開きます。選手たちの間では、深い友情や親しい交わりが生まれます。観ている人は、世界各国から送られてきた選手たちの背景、劣悪な環境の中でもがんばってオリンピックに出場できたということなどが分かち合われ、慈しむ心でいっぱいになります。
今回は、当幼稚園卒園児である都筑有夢路さんがサーフィンで銅メダルを取りました。オリンピックに出られるだけでも光栄なことですが、メダルにつながったということは大きな喜びです。幼稚園では、先生たちと子どもたちが垂れ幕を作って、駐輪場の方に下げて応援をしました。送り出した側に喜びと勇気と希望をもたらしてくれました。平和が実現されてゆくことはこういうことなのだと思いました。
さて、今日は平和の主日。イエスさまは「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)と述べられました。
平和を実現すること。オリンピックに出場している選手たちが、国の紛争や民族間の争いの中でも、オリンピックを目指して諦めずがんばってきたように、私たちが、今、置かれた状況の中から常に可能性を探し出して、それに希望をかけて生きること。今コロナ禍の中で、今までの日常を失い自粛の日々を過ごしていますし、さらに爆発的に感染者数が増えていることを見ると不安と恐れに捕らわれてしまいがちです。しかし、そのただ中に可能性がある、希望をかけるものが確かにある、静かに臨んでいることを信じて探し出すように生きることが求められています。それは、主のお招きです。どのようにして私たちは応えることができるでしょうか。
イエスさまは、「わたしの愛に留まりなさい」と勧めておられます。「わたしが父の掟を守ってその愛に留まっているように、あなたがたもわたしを愛するなら、わたしの掟を守り、わたしの愛に留まっていなさい」と。また「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。そうすることだけが、可能性と希望を見出して生きる道なのだと。つまり、愛するという道だけが平和を実現してゆく道であり、愛することと平和を実現することは別々のことではなく、一つであることがわかります。
それでは、イエスさまの愛に留まること。イエスさまが愛してくださったように互いに愛し合うということとは具体的にはどういうことでしょうか。イエスさまが十字架の上で命をささげてくださるほど私たちを愛してくださったように、私たちも人のために十字架にかかって自分のいのちをささげることでしょうか。
使徒パウロはこのように述べます。「人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、愛がなければ、騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」(1コリント13:1~3)と。
愛がなければ!優れた賜物をもち、人のために情熱的に働いて大きな犠牲をはらうとしても、愛がなければ、無意味なことになるのだと述べているのです。
使徒パウロは、愛について続けてこのように述べています。「愛は、忍耐強い。情け深い。ねたまない。自慢しない、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(1コリント13:4~7)と。
このことを日常にて実現するのは難しいことです。特に、毎日顔を合わせている人や快く思わない人との間ではなかなか実現しにくいことです。ですから、そこには両者の間に立ってくださる仲介者が必要なのです。それがイエス・キリストです。
イエスさまが、「わたしの愛に留まりなさい」と勧めておられるのはそのことを述べておられるのです。仲介者としてわたしがあなたがたの間に立つので、あなたがたは恐れず向かい合いなさいと。どちらにも左右されることのない愛の眼差しをもって、イエスさまは愛して平和を作りあげようとする私たちの間に立っていてくださると約束しておられるのです
それだけ私たちは揺れ動くものだからです。私たちは、相手のやっていることがいちいち気に入らず苛立ちを覚えます。天気の変化や体の調子の変化によっても不安になったり恐れたりします。その私たちのそのままを愛して、じっと守ってくださいます。凸凹していて、状況によってころころと変わる私のことを、決して裁いたりなさらないで、御心を注いでくださるのです。どんな時も、若くても年を取っていても、イエスさまは私たちを、平和を実現する器、愛し合うために主の愛に招かれている者として尊び、可能性を見出してくださいます。
愛するということは、変化する相手を受け入れることです。特に子どもと向かい合い、その子に愛を注ぐとき、その道がどれだけ変化の連続の道なのかがよくわかります。相手の状態によって、昨日まで大切にしていたことが今日は何の意味もないものに変る場合もあります。または、今日対立していたのに明日は仲良くなって、何か大切なことを一緒にするパートナーに変る場合もあります。愛するということは、これだけの変化が起きてもそれを受け入れることです。そして、私たちの日常は、あらゆる変化の可能性にあふれているのです。
しかし、私たちの中には変化を望まない傾向があります。あまり変りたくない。ですから、変化が起きる前に一方的なやり方で状況を抑えてしまいます。なぜなら、それを受け止める力がないからです。ですから、そこでは、常に好き嫌いがあり、白と黒がはっきり分けられ、善と悪が区別され、私とあなたがわかりやすく遠く離れています。
その私たちがイエスさまの愛に留まり、互いに愛し合うように招かれています。イエスさまは、私たちの弱さの中に潜んでいる可能性に関心を注いでおられます。そのイエスさまの感心に私たちが気づくとき、私の意見、私の主張、私の考え方、私の習慣は沈黙させられることでしょう。喜んで古いわたしが死に、イエス・キリストに生きる私に生まれ変わるのではないでしょうか。それは、先週の福音からきいたように、五千人に対してわずかな五つのパンと二匹の魚に対して、イエスさまが望みをかけて祝福されことと同じことが、私の中で起きていることに気づいたからです。
相手の弱さの中に隠れている可能性、私の中に潜んでいて私がダメだと思うもの、神さまの御心はそこに留まります。神さまは、私たちの高いプライドや野心的なことには関心を注ぎません。私たちが嘆きたくなるくらいダメなところ、そこを、命の源なる主は用いたいのです。ですから、私たちが気づくまで静かに見つめ、そこを祝福しておられます。いつまでも、死ぬときまでも、気づくまで待ってくださいます。神さまの忍耐です。それが神さまの愛し方です。私たちが、イエスさまの愛に留まるとき、そのときに、このはかりも知れない神の愛に気づくのでしょう。
イエスさまの愛に留まること。イエスさまが愛したように互いに愛し合うこと。それは、私たちが留まりたければ留まり、留まりたくなければ留まらなくてもいいようなことではありません。イエスさまの愛に留まってイエスさまのように愛するということは、イエスさまの招きを受けている者への新しい戒めであり、福音の呼びかけなのです。私たちの信仰も道を整える術がそこにあるからです。真の平和を実現する道がそこにあるからです。
望みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平和とをあなたがたに満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。父の子と聖霊の皆によって。
ユーチューブはこちらより ⇒ https://youtu.be/Rs3onVlD6p0