私と、私の家は主に仕えます

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ヨハネによる福音書6章56~69節

私と、私の家は主に仕えます

先週は夏休みをいただいて、少し涼しいところで久しぶりにゆっくりすることができました。こちらは雨の日が多かったようですが、私が過ごしたところでは天候に恵まれました。今回は、なるべく仕事を持ち込まないで、のんびりしようと思っていたのですが、そののんびりすることがなかなか難しいのです。ただぼっとしているのがのんびりすることなのか、少しは何かをしていた方がいいのか、のんびりすることに慣れていない私には、少し難しい時間でした。

しかし、何もないはずの時間の中で、一日何回も求められることがありました。それは、選択することです。何のスケジュールもなく、自然界の静けさの中で大自然と一緒なのに、その中で何かを選び取らなければならないのです。つまり、鳥の声や窓から入ってくる太陽の光、または葉っぱを揺らす風、それらを通して語りかけられる、天地を造られた創造者の声に耳を傾けるという選択を、その瞬間、その時々にできるかということです。

なぜなら、ただ自由で、何もなくのんびり、好きなように過ごしていい時間でも、人の心は常に闇と光の世界を行き来していて、それの中で、ともすると、それまでの疲れに支配されて、どんどん暗闇の方へ入って行くようになるからです。

それに気づいたときに、善と悪を識別して良い方を選択する自由が与えられているということがどれだけ幸せなことかに気づき、感謝の時でした。神さまの語りかけは、どんな時も、どんなに小さなことの中にも、いかなる険悪な状況の中にも潜んでいます。神さまの恵み、神さまの祝福、神さまの愛を見逃さないために、私たちは目覚めていなければなりません。私たちが暗闇の道に陥ってしまわないために、目を覚まして光の方を選び取るような毎日を過ごしましょう。

先ほど拝読されたヨシュア記の中でも、それぞれに選択権が与えられています。ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡ってカナンの地に入って行ったイスラエルの部族たちは、今それぞれ、分け与えられた土地に帰っていくときになりました。闘うために結成された部族たちの男性たちが、もう戦いが終わったので、それぞれ自分たちのところへ帰るのです。

そこでヨシュアは勧めます。「あなたたちは、主を畏れ、真心を込め真実をもって、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます」(14~15節)。

ヨシュアは、他の部族に対して信仰の自由を与えています。どの神に仕えるかはあなたたち自身が選びなさいと。しかし、私と私の家は主に仕えます、と。とても素敵なリーダーですね。

このような素敵なリーダーを育てるのは会衆の力であると思います。共同体の中で、会衆一人一人が自立していて、信仰のために、ここで自分が何を選び取るべきかをよく知っている。そのためによく祈り、支え合うという中からこういうリーダーは生まれてくるのだと思うのです。イスラエルの十二部族は、互いの部族が住むための土地を得るために一緒に戦いました。自分たちの土地はすでにヨルダン川の向こう側に与えられていたのに、他の部族のためにヨルダン川を渡って戦い、そして今日は自分たちのところへ帰ろうとしています。協力する、一致している、互いを尊重している。私たちの教会もそういう共同体として歩むために、みなさまは一所懸命に祈りの中で歩んでこられました。本当に感謝です。

ヨシュアは、協力して一所懸命に一緒に戦ってくれた部族の勇士たちを通して、有能なリーダーとなり、その口に委ねられた言葉、その証も人々の信仰を強くして生かすものでした。「もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます」。

すると部族の男たちは答えます。「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。・・・わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です」(16~18)。

これは、大きな家を、心を一つにして立ち上げたのと同じことと思います。

同じような場面が本日の福音書の中にもあります。イエスさまのお言葉に疑問を感じた多くの弟子がイエスさまから離れ去っていきました。そのときにイエスさまは残った十二人の弟子たちに聞かれました。「あなたがたも離れて行きたいか」(67節)と。そのときに、躊躇することなく答える人がいました。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」(68節)。シモン・ペトロです。

ペトロは、決して知識豊かな人でも、打算的な人でもありません。しかし、いざというときに、まっすぐな返事ができる人でした。

マタイ福音書の16章で、人々がイエスさまのことを「洗礼者ヨハネだ」とか、「エリヤだ」とか、「エレミヤだ」とか、「預言者の一人だ」と言っていたときに、イエスさまは、弟子たちに聞かれます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と。そのとき、ペトロが真っ先に答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。

そこでイエスさまは彼に「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」とお告げになります。

多くの弟子が離れてゆくときに、それに左右されることなく、イエス・キリストを選び取るというセンスとその勇気。これがペトロの賜物です。イエスさまもペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたときに、それは神さまからあなたに与えられた答えだとおっしゃいました。

それにしても、多くの弟子がイエスさまのもとを離れ去っています。離れる理由は、イエスさまがおっしゃる言葉が理解できなかったからです。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる」(66-68)。イエスさまのこのことばに彼らはつまずいたのでした。

私たちもこのことばにつまずかないでしょうか。

理性で受け止めようとするとき、このイエスさまの言葉を理解できる人は一人もいないと思います。人の肉を食べるのです。人の血を飲むのです。
初代キリスト教の中で、聖餐式はクローズされていて、聖餐式になると洗礼を受けた人だけが一つの部屋に集まり、部屋のドアが閉められました。気になった人たちはそっと部屋の中をのぞくわけです。すると、「取って食べなさい、これはわたしの体である」、「取って飲みなさい、これはわたしの血である」という言葉が聞こえたので、人たちは驚いて、部屋の中で人を殺して食べているという噂が広がるようになり、クリスチャンは人の肉を食べる野蛮人だという風に言われました。

そして、キリスト教の中では聖餐式に関して多くの論争があり、分裂が起きました。今も多くの教派において一致しないのが聖餐式です。とても悲しいことです。そんな不一致な状況の中で、私たちはどう告白するのか、それが私たちの選択だと思います。

イエスさまは、「父がお許しにならなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」(65節)とおっしゃっておられます。

つまりそれは、私たちの理性や私たちの見解によってイエスの体と血に預かることもできなければ、イエスを肉として食べ血として飲むということの説明もできないということ。ただ、神さまの見方、神さまの愛、神さまの招きによってのみ、イエス・キリストの体と血のことを知るようになるということです。信仰の世界です。愛の世界です。死が復活に変えられる世界です。

私たちの周りの多くの人が、人間的な理性の中でイエス・キリストの体と血のことを捉えて、その食卓への招きを拒み、離れ去ってゆくとしても、さらには、異なる見解の中で一緒に主の食卓に与ることを拒むとしても、私たちは、躊躇することなく告白したいです。私と私の家は、私の教会は主に仕えます、と。つまり、私はイエス・キリストの愛、私のために十字架の道を歩んで、死んでくださったその愛を受け継ぎ、私も神さまが私を復活させてくださることを信じて、人のために喜んで死ぬ者として歩みますと告白する群れでありたいです。なぜなら、イエス・キリストの体を食べ、血を飲むことはそのことに尽きるからです。私たちと私たちの教会がイエス・キリストの死と復活を証しする教会になって行くときに、この中から主の群れを牧会する献身者は生まれます。

望みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平和とをあなたがたを満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。