幸い、神に助けを頼む人
聖霊降臨後第15主日
マルコによる福音書7章24~37節
幸い 神に助けを頼む人
シリア・フェニキアの女性の物語と耳が聞こえず舌が回らない人の物語。今までは別々に読まれてきた二つの物語が、今年は一緒に読まれるように選ばれています。何か意図しているところがあるのでしょうか。どちらも癒しの奇跡の物語です。片方はティルス地方でなされた、悪霊に取りつかれた幼い娘の癒しの奇跡、もう片方はガリラヤ湖で行われた耳が聞こえず舌が回らない人が癒される奇跡物語です。
皆さんは奇跡を信じますか。私たちは、重い病にかかり余命3カ月と言われた人が2年も生きているとか、大きな飛行機の事故でほとんどが死んだのに一人が生き残ったとか、負けるはずの野球の試合で9回裏に満塁ホームランを打ち逆転勝利をしたとか、受かるはずのない大学に受かったとかというときに、奇跡が起きたと言います。このように私たちの周りでも奇跡は起きていますが、しかしそれらは、聖書が語る奇跡とは異なります。ある程度、科学的に裏付けができ、納得し得る出来事です。
聖書が語る奇跡物語の中には、イエスさまが湖の上を歩いたり、風や高波を沈めたりする自然界に対する奇跡物語と、本日選ばれているような病を癒したり死者を甦らせたりする奇跡物語があります。
聖書が語る多くの奇跡物語を、私たちはどのように受け止めるべきなのでしょうか。単純に奇跡を信じるか信じないかという二者択一のような視点からではなく、私にとってこの奇跡物語はどんな意味をもっているのだろう、何を語ろうとしているのかという視点から奇跡物語の中に入って行くことが大切です。そうしない限りは、聖書の中の奇跡物語は私とは関係のないものになってしまうことでしょう。
理解しにくい奇跡物語でも、表面から眺めて考えたり、批評を述べたりするのではなく、積極的に物語の中に入って行く。そのことによって、その奇跡の物語が私の物語となります。そのとき、私の人生の中に奇跡を起こしつつ介入しておられるイエスさまに出会うのではないでしょうか。
さて、シリア・フェニキアの女性の娘が癒された奇跡物語と耳が聞こえず舌が回らない人が癒されてゆく奇跡物語。二つの物語には共通点があります。それは、癒される当の本人たちよりは周りの人たちが動いているということです。シリア・フェニキアの女性の物語では、母親一人が必死に娘のためにイエスさまに嘆願し、イエスさまは遠距離から娘の病気を癒しておられます。耳が聞こえず舌が回らない人の物語は、人々がその人をイエスさまのところに連れて来たと述べ、イエスさまが人々の中からその人だけを連れ出して癒しています。母親が必死に打って、人々が障害のある人をイエスさまのところへ連れてくる。このことは、私たちにどれだけ慰めになることかわかりません。特に、病気になって入院しても、面会もゆるされない状況です。そういう状況のただ中で、家族や近所の人が私の病に、障害に関心をもってくれている、私の辛い状況を必死に訴えて祈ってくれている人がいるということは、大きな力になります。
しかも、癒しを求めて嘆願する相手は他でもなくイエス・キリストです。シリア・フェニキア出身でありながら、ティルスという地方に住み、まったくユダヤ人とは異なる立場にいる女性が、その地方にもいる神々ではなく、イエス・キリストを癒し主として信じて疑っていません。ガリラヤ湖の貧しい村の人々は、ナザレ出身のみすぼらしいイエスさまの前に、仲間のことを自分のことのように連れてきて癒しを求めているのです。
マルコ福音書の中には、他の箇所にも似たような物語があります。中風にかかっている人を四人の仲間が担架に乗せてイエスさまの前に連れてきて、入り口が大勢の人によってふさがれていたために、家の屋根をはがして病人をイエスさまの前に降ろします。イエスさまはその四人の人々の熱心さに感動されて、担架に載せられている人を癒されるという物語です(マルコ2章)。
こういう周りの人々との関係性の中でこそ私たちは生きるという喜びを味わいます。私たちは、健康であったとしても一人では生きられません。ましてや病気や障害の中でひとりぼっちだと感じるとき、大きな問題を抱えている家族を抱えているとき、これが私の背負うべき十字架なのだと誤った判断をして、希望を失いそうになることもあるでしょう。しかし、避けることも、変えることもできない現実のただ中で、行き詰まりを覚えていたその自分を、人々が、家族が励まし支えてくれるのです。イエスさまの前で祈り、そんな私をイエスさまの前に連れて行ってくれます。このような連帯関係ができるときにはどんな艱難をも恐れずに乗り越えられることでしょう。
今開催されているパラリンピックに、アフリカのザンビアの代表で、陸上選手としての出ているムンガ選手の記事を読んで、「がんばれ!」と応援したくなりました。彼女は生まれつき髪や肌の色素が薄い遺伝子疾患を持ち、そのようなひとはアルビノと呼ばれ、視覚障害をももっています。アフリカの一部の国では、アルビノに対する差別が強く、またアルビノの骨や臓器は幸運をもたらすとの迷信から、たくさんのアルビノが殺されたり襲撃されたりしています。その多くは子どもや女性だそうです。
さてこのムンガさんは、子どものごろからスポーツに出会い、陸上を始めることで、精神的にも視覚障害やアルビノに対する偏見と差別から解放され、今回、東京オリンピックに参加することもできました。彼女にとって、オリンピックに参加するのは、差別と闘うためだというのです。アルビノでも、女性でも、母でもスポーツができるということを示して、差別をなくすためだというのでした。
周りの人の存在が、場合によってはムンガさんの周りの人たちのように自己目的のために障害のある人の命をあまりにも簡単に奪い取ってしまう。今、この時も、地球のどこかでは、弱い人たちが、誤った迷信や偏見と差別のために命が狙われているのかもしれません。私たちの暮らしの近いところでも同じようなことが起きていないでしょうか。コロナ感染者を差別する社会、障害をもっている人が生きにくい社会を、私たちは作って来なかったのでしょうか。
自分に幸運が入ってくるならば、他人にどんな被害をもたらしても構わないという考え方は、資本主義がもたらしたものです。経済成長や暮らしの豊かさを重んじるその中心には、もちろんお金があります。お金さえあれば何でもできると思うから、お金が神さまになっています。ですから、経済的に豊かになって行けばいくほど、お金をもっている人はお金の奴隷になり、どんどんお金に使われるようになります。お金が重んじられるところでは、奇跡など起きません。お金は人に何でもできるように見せかけますが、付いて行ったその最後は破滅です。
教会の営みもお金を中心においてはいけません。イエス・キリストが中心におられることを、どんなに小さなことにおいても証できるようにしなければ、お金がすぐその場を狙って中心に居座るようになります。なぜなら、私たち自身がお金の奴隷的な生き方に慣れているからです。そのためにも、私たちは自分の信仰のメンテナンスを、時を問わず心がける必要があります。
シリア・フェニキアの女性の幼い娘、そして耳が聞こえず舌が回らない人。この人たちは、周りの人の助けなしにはどうすることもできない人たちでした。しかし、二人とも周りの人たちに助けられて、癒し主のイエスさまの力によって癒されました。そして、これから、みんなと一緒に誰か他の人を助けることもできます。
まさにイエス・キリストの共同体の姿がここにあります。一人ぼっちの人を一人にしておかない。病気や障害があって一人で生きることが難しい人の手となり足となり口となり耳となって、イエスさまに祈り、イエスさまに聞き、イエスさまに出会い、その結果、みんなが奇跡を経験するようになる。見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開き、歩けなかった人が鹿のように躍り上がり、口の利けなかった人が喜び歌い、うずくまっている人が起こされるような奇跡物語が私たちの暮らしの中で生まれるのです。それは、私たち自身も結局は見ているようで見えていなく、聞いているようで聞いていなく、歩いているようで歩くべき道を歩いていない、ずっと自分自身の中にうずくまっているような者だからです。私たちも誰かの助けによらなければイエス・キリストの前に来ることができない、弱いものだからです。
私たちの周りにも多くの神々がいます。経済的にも豊かでお金が物を言う世界で暮らしています。しかし、イエスさまこそ癒し主であると信じて疑わず、イエス・キリストにこそすべてを委ねて祈る、そういう人々として生きるように、今日も私たちはイエス・キリストの前に招かれました。今週、皆さまの信仰の歩みの中で多くの奇跡が生み出されますようにお祈ります。
幸いな者、ヤコブの神を助けとし、望みをその神、主に置く人。
望みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平和とをもってあなたがたを満たし、聖霊によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。
ユーチューブはこちらより ⇒ https://youtu.be/FZg9EMoFMjE