わたしはあなたを愛しています

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マルコによる福音書8章27~38節

わたしはあなたを愛しています

日本に来たばかりの頃は、男性たちが好きな人に対してとても無口であることにがっかりしていました。内心、「愛しているという言葉はいつ言うのだろう」と思いながら、あまり聞く機会もなく過ごしたような気がします。ところがこの頃、若い恋人たちの言葉を聞いていると、気持ち悪いと思っている自分がいます。古い日本の体質に慣れたのか、歳を取ったのか。

イエスさまは弟子たちに聞きました。「人々は、わたしのことを何者だといっているか」(27節)と。弟子たちは、「洗礼者ヨハネだ』という人も、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」(28節)と答えました。するとイエスさまはもう一度弟子たちに問いかけます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(29節)と。弟子たちの中でペトロが答えました。「あなたは、メシアです」(29節)と。

イエスさまが弟子たちにこの問いを投げかけた場所は、フィリポ・カイサリアという地方でした。

フィリポ・カイサリアは、当時とても注目されていた場所です。フィリポというのは、ヘロデ大王とその第五番目の妻との間に生まれた息子の名前です。このフィリポは、ローマ皇帝のアウグストゥスより、いくつかの土地の領主に任じられて、そこを30年間治めました。途中でパニアスという土地を自分の名前を付けてフィリポ・カイサリアと改名し、そこを王宮所在地に指定します。このように、フィリポ・カイサリアは、政治的にとても重要な場所でした。

つまり、当時、イスラエルの民がローマの植民地下にあって苦しんだことの一つは、ローマ皇帝を神に等しい者としてあがめなければならないということでした。それは、自分たちが礼拝している神を蔑ろにすることです。そういう状況の中で、領主フィリポがローマ皇帝に信頼されていたということは、彼がローマ皇帝に忠誠を誓い、神に等しい者としてあがめることを躊躇していなかったということです。

そういう場所で、イエスさまはご自分こそがメシアであることを現そうとしておられたのです。ですから、このイエスさまの弟子たちへの問いかけは、具体的な政治的緊張の中で発せられたのでした。

ともすると私たちは、信仰告白というのは、礼拝の式文の中にあるものと思っています。確かに、毎週、礼拝の中で、使徒信条やニケア信条を告白しています。このことは、キリスト教の歴史の早い時から、教会の秩序を守るために大切にしてきたことです。

しかし、礼拝で告白された信仰告白は、日常の中で具体的な形として現れたときに初めて生きたものになります。

私たちの日常、その本当の姿は、実にどろどろしています。表に現すのに恥ずかしいくらいごちゃごちゃしているのです。家族のこと、夫婦関係、親子関係、兄弟姉妹関係、親戚関係、友達関係、仕事場での人間関係・・・それらの中で葛藤が尽きない日々です。さらには、家族や自分自身の健康状態が衰えてくる現実にも向き合わねばなりません。このような苦悩や葛藤の中で、毎週の礼拝の中で告白している信仰告白はどのような意味をもつのでしょうか。

「それでは、あなたがたはわたしのことを何者だと言うのか」というイエスさまの問いかけに対して、ペトロは「あなたはメシアです」と答えました。

この対話には、イエス・キリストを主と信じる者の生き方を根底から支える、とても大切なことが示されています。

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と聞かれるイエスさまのお心にあるのは、「あなたはわたしのことが好きですか」という問いなのです。私たちは、大人になるとあまり互いの気持ちを伝えずに、ドライな関係になってしまいますが、子どもたちは違います。子どもは良く親に聞きます。「母さん、私のこと好き?」と。お母さんは、「もちろん、好きよ!」と答えるでしょう。すると子どもは嬉しくなって、「私も母さん大好き!」と言って、本当に喜ぶわけです。子どもは一日に何度も聞きたくなるようで、その度にお母さんは「好きよ!」と答える。このことの繰り返しが親子の間に深い信頼を育みます。そして、母親に何度も「好きよ」と言われて愛された子は、人を愛し信頼する人に成長していきます。

イエスさまと弟子たちのやり取りは、互いの気持ちを確認し合い、その中で互いの信頼が育まれるために必要な過程でした。このことを私たちも日常の中で具体的な形で表してゆくことが大切だと思います。そのような体験を重ねたとき、本当に大変な苦悩と葛藤の中でそれらは大きな力になるのではないでしょうか。

今月は敬老の日もあって、教会ニュースの巻頭言に先日観た映画の「ファーザー」について書きました。しかし、感じたことを短い文書で伝えるのが難しかったので、ここでもう一度皆さんにこの映画で感じたことをご紹介したいと思います。

「ファーザー」という映画は、認知症になった81歳の男性の物語を描いたものです。現実と幻想の世界で混乱し、一緒に暮らす娘さんが介護しきれなくなって、彼は施設で暮らすようになります。現実と幻想の世界を行き来する中で、施設の女性の職員が娘に見えたり、男性職員が娘の連れ合いに見えたりします。最後の方で彼は、「私はだれ?」「ここはどこ?」と職員に聞くようになります。職員が、「あなたはアンソニー」「ここはあなたの部屋」と答えると、「アンソニーってだれ?」と聞き直すのでした。

趣味や人間関係など、自分で自分のことができていた時の彼の知的な姿や、エンジニア―として働いていたときのプライドなど何もかもがいまや失われます。また、家族のことも自分自身のことさえもよく分かりません。このようになったとき、その人をその人として見出すものははたして何でしょうか。

私たちはだれでも認知症にはなりたくありません。過去と現在の記憶を失うことは絶対嫌ですし、身の回りのことや家族のことが分からなくなることも考えられない、まして自分の名前を忘れて、自分が誰なのかわからなくなることは考えただけでも嫌だと思うのです。

しかし、もし、私が認知症になって、私の名前さえ分からなくなって「私はだれ?」と聞くようになったら、その私は私ではなくなるのでしょうか。私が家族のことや友達のことを忘れて、さらにかつての知的な感覚も失ってしまったら、その私を私であると証明してくれるものは何でしょうか。そもそも人間の「尊厳」とはどういうことなのでしょうか。

私たちは、自分を言い表すときに、まず名前を言います。次に住んでいる所や家族関係、趣味などをあげます。他にもいろいろありますが、基本はこのようなものと思います。しかし、これらが私を現わすものとして通用しなくなるときがくるのです。そんな私に苛立ち、何もかも失い、そしてとうとう一人になったことさえも分からなくなった。それは、まさに私の人生の中のフィリポ・カイサリアに立っているときです。危機的な状況です。

しかし、イエスさまのお言葉はそこでこそ響きます。 「それでは、あなたはわたしを何者だと言うのか」。つまり、「わたしはなたを愛しているけれど、あなたはわたしのことをどう思うのか」と。

いつか皆さまに「神は愛することしかできない方」という初代教父の言葉をご紹介したことがあります。周りの人たちから見捨てられ、さらには自分自身からも見捨てられて行く私の人生のフィリポ・カイサリアにて、愛することしか知らない方が、変わることなくメシアとして立ってくださるのです。どんなに私が自分を惨めだと思うときにさえ、神の愛の中で、私の尊厳が何一つ損なわれることがないのです。

もちろん認知症だけではありません。私たちは、自分を失うような絶望的状況に追いやられる時があります。深い悲しみや苦しみ、思うようにいかないことに対して怒り狂うようなことで、自分自身を失う時があります。つまり、今日イエスさまが弟子たちと一緒に行かれたフィリポ・カイサリアという場所に置かれることが私たちの人生には何度もあるのです。もう何もかもおしまいだと思うフィリポ・カイサリア、そこで響く神の声、イエス・キリストの信仰告白、「わたしはあなたを愛している」というメシアの声を今聞くのです。どろどろした日常の中で、「あなたが好きだ、あなたを愛している」という告白を交わしなさいと、今日呼ばれています。子どものように、「ねえ、わたしのこと好き?」「大好きよ」「わたしも大好き!」と素直に告白できるようになったらいいですね。

ユーチューブはこちらより ⇒ https://youtu.be/0bE9HnVPyaY