子どもを真ん中に
聖霊降臨後第17主日
マルコによる福音書9:30~37
子どもを真ん中に
皆様、昨日の台風の大雨は大丈夫でしたか。神奈川県もかなり集中的に降られて被害が出たところもあると思います。早朝から避難しなければならなかった方々や、被害に遭われている方々が、どうか平安の中におられますように祈ります。
強風が吹き、激しい雨がまるで大地をひっくり返すかのような勢いで降り続けるとき、私は、自分の中の汚いものすべてがひっくり返されて、風に吹き飛ばされるようにと、窓ガラス越に嵐を眺めながら祈ります。実際、台風は自然界に必要なものだそうです。海の底はひっくり返され、山林の古いものは倒れ、新しいものに場所を譲る機会となるそうです。台風が悲劇を生まないようにと祈りながら、ふと、私の中の要らないものが台風によって処分されたらなと思います。
要らないもの、もう古くなったものがそのまま人の中に蓄積されて、それらがその人に不自由さや渇きをもたらします。
今日の交読詩編である54篇は、ダビデの歌と記されています。彼の魂も渇いていました。サウル王から逃れて隠れていたのですが、一緒にいる人からサウル王に告げ口され、それを知ったとき、深い悲しみと孤独感にダビデは覆われます。そこで彼はこう祈ります。「見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる」と。新しく翻訳された聖書協会共同訳はもう少し違います。「見よ、神はわが助け。わが主は私の魂を支える人々の中におられる」と訳されています。私を敵から救い出してくださる主は、私の魂を支える人々の中に一緒におられるという、希望に満ちた祈りであり信仰の告白です。群れの中には確かに自分を非難する人もいるでしょう。しかし、それ以上に、私を支える無数の人々がいて、そういう人々の中に主はおられるのだと、ダビデは祈り宣言しているのです。
「見よ、神はわが助け。わが主は私の魂を支える人々の中におられる」、この祈りはまさにイエスさまの十字架の道での祈りだと思いました。権威ある人々から嫌われ、弟子たちからも裏切られて、イエスさまは十字架の道を進まれます。神さまに大きな信頼と望みをおいて歩まれます。その中で、イエスさまは、弟子たちへの希望を捨てませんでした。弟子たちが、今は自分の利益のために目が眩んではいるけれども、必ずいつか、この弟子たちを通して神さまが証しされることをイエスさまは信じておられたのです。
主の弟子たちは、イエスさまに呼ばれてその弟子となり、イエスさまと寝食を共にしながら、イエス共同体の一員となっていました。しかし、彼らの目指すことはイエスさまのそれとはまったく違いました。彼らにとって大事なことは、この世での出世でした。イエスさまこそがこの世で一番偉い人になるのだと弟子たちは思っていました。ですから、そのためならどんなことでも耐え忍ぶと覚悟し、イエスさまに従ったのです。そう思っていた弟子たちは、イエスさまから、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言われても、その意味がわかりません。わからないのに尋ねることもできず、ただ怖がっています。
イエスさまの受難、そして復活、それらは自分たちの出世の道にとっては邪魔なものです。ですから、先週の福音書の中のペトロのように、「あなたはメシアです」と告白をしながらも、イエスさまが受難の予告を始めると、そんなことがあってはならないとイエスさまをわきへ連れて行っていさめたのです。古い人間の中に大きく場を取って居座っている欲望が、神を自分のものにし、自分自身の概念の中に閉じ込めようとして、新しい道を歩むのを許さないのです。
本日の福音書の中のそういう弟子たちの姿は私たちの姿です。イエスさまはそういう人々をご自分の弟子として選ばれました。イエスさまは、そういう私たちをご自分の福音を伝える器として選んでくださり、信仰を告白するものとして常に招いてくださっています。イエスさまはこの私たちをご存知なのです。信仰の歩みとこの世の歩みの狭間で葛藤していること、片足はイエスさまの道に、片足はこの世の道においていること、その他私たちのあらゆる不誠実さ、それらをイエスさまはよく知っておられます。
しかし、イエスさまは私たちがそうであるからもう要らない、もっとちゃんとやってくれる人を探そうとはなさいません。私たちからけっして離れたりなさいません。つまり、私たちの魂が神さまに支えられていることを確信するイエスさまは、私たちに希望を抱いておられ、ご自分もその私たちの群れのお一人となって、私たちをご自分の体にして、わたしたちを通してご自分が支えられたいと、「見よ、神はわが助け。わが主は私の魂を支える人々の中におられる」と祈りながら願っておられるのです。
そのイエスさまのことに私たちは気づいているのでしょうか。気づかないでいるなら、私たちは、今、どこにいるのでしょうか。
詩編54編を歌うダビデは、自分を非難する人々のただ中にいて、安全な逃げ場を探すよりは、そのただ中に留まりながら魂の自由を祈っています。そしてその魂の自由は、神さまの超越的な力によってもたらされるものではなく、天の上とか、海の中とか、山のとか、雲の中のようなところからいただくのでもなく、私の魂を支える人々からもたらされると述べているのです。これはイエスさまのお心です。敵のただ中に留まる人の心の自由。
そして、私自身は今どこにいるのだろうと、自分の居場所を探してみました。
幼稚園の夏休みが終わって二学期が始まり、半月ほど経ちました。子どもたちの声が牧師館にまで聞こえるようになると、だらしない私の生活も規則正しく落ち着いたものになります。朝の礼拝、帰りの時間を知らせる子どもたちの声や讃美歌と祈り、お弁当の前の祈り・・・時計がなくても大丈夫です。
そんな一週間の流れの中でもっとも嬉しいことは、毎週の水曜日、年長のゆり組みの子どもたちに聖書の話をする時間です。先週はこんなことがありました。二学期が始まって二回目だったので、一週間前の一回目に話したことを覚えているかどうか聞いてみました。一回目のお話は、体が麻痺している人のお話でした。四人の友たちがいて、四人の友達たちは、体が麻痺した友達を担架にのせてイエスさまのところに連れて行ったけれども、入口が大勢の人でふさがっていたので、屋根をはがして、そこからイエスさまの前に病人を吊り降ろした、マルコ2章の物語でした。それで、その病人がどうして体が麻痺したのか、そのことは聖書に書いてないので、ある韓国人に実際の起こった事件をそこに挿入して話しました、修学旅行で行ったお城の高いところを歩いていて、そこから落ちて首から下が麻痺してしまったと話しました。
子どもたちには、修学旅行という言葉が難しかったのでしょうか。一人の子どもがその場面をこんな風に覚えていました。つまり、「その人が高いところから落ちたのは、掃除をしていて足がつるとすべっちゃったから」と。その子の返事を聞いて、私は感動し、思わずホッとしました。何にも束縛されていない、自由な子どもの世界へ自分が招かれたからです。
この子は私の話に縛られることなく、自分の世界でもう一度私の話を造りなおし、自分の言葉に置き換えたのでした。「掃除をしていてつると足がすべっちゃって落ちてしまったのだ」と。純真で温和な平和な世界、子どもの世界、それはイエスさまの世界です。この子どもたちのただ中に私の魂を支えてくださる主はおられるのだと思うと、この子どもたちとイエスさまの話を分かち合う時間、子どもたちの一日の流れの中に預けられている自分の日常がどんなに幸せなことかわかりません。
自分たちの中で誰が一番偉いかと、出世欲で言い争っていた弟子たちの真ん中に、イエスさまは子どもを立たせました。そして子どもを抱き上げて言われます。
「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(37節)。
私もかつてはこういう子どもでした。しかし、限りなく自由で無邪気な子どもをどんどん隅っこに追いやって、理性を育て、合理性を重んじて打算的で賢い大人になりました。この世はそうではないと生きていけないと思いこんでいるからです。イエスさまは、子どもである私を、子どもである皆さんを、隅っこではなく、真ん中に連れ出して、この子どもを受け入れるようにと言っておられます。素直で無邪気な子どもだけが神の国を受け入れることができるからです。
望みの神が信仰からくるあらゆる喜びと平和とを持ってあなたがたを満たし、 聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。