二つを一つに

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マルコによる福音書12章28~34節

二つを一つに

先週私たちは目の見えないバルティマイの目がイエスさまによって開かれ、見えるようになったという物語を聞きました。

今週の箇所は「聞くこと」がテーマです。「聞け、イスラエルよ」、「シェマー、イスラエル」と告げられるのです。

目が開かれ、そして耳が開かれるということ。正しく見て正しく聞くということ、それが、イエスさまに従うためには大切なことであると告げられているように思います。心の目が開かれて、今まで見えなかったものが見えるようになり、耳が開かれて、聞こえなかった心の深いところの声が聞こえるようになる。その声に導かれる歩みはどんなに幸いな歩みなのでしょう。

私は、隣人の声をどれだけ正しく聞いているのだろうと思ってしまいます。相手が話していること、話そうとしていることを聞いているのだろうか。心の耳を開いて、相手が語ろうとしていることに、どれだけ素直に耳を傾けているのだろうかと思うのです。ともすると、その時、その場の自分の都合を優先したり、相手への偏見的な感情をもったまま聞いたり、忙しいために流れ作業のように相手の訴えを適当に聞き流したりしている場合が多くないだろうかと自問するのです。

さて、本日は宗教改革主日。

腐敗していた中世末期のカトリック教会の中で、見るべきことを正しく見、聞くべきことに心の耳を傾けることのできたマルチン・ルターが、当時のカトリック教会に対して立ち上がったこと、宗教改革を祝う日です。その祝いの日に、私たちは、イエスさまと一人の律法学者との対話を通して福音に招かれています。

律法学者がイエスさまに、「あらゆる掟の内で、どれが第一でしょうか」と聞きました。それに対してイエスさまは、「第一はこれである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」と答えられました。律法学者はイエスさまに同感して言います。「先生、おっしゃる通りです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」と。律法学者の適切な言葉を聞かれたイエスさまは、「あなたは神の国から遠くない」と言われます。

あなたは神の国から遠くない」。これは、どういう意味でしょうか。

昔から、多くの人は救いを求め、神の国に入る道を必死に探し求めてきました。

中世の末頃、カトリック教会の中でも、救いを手に入れるための方策がいろいろ考えられ、残念なことにそれが教会を堕落させてしまいました。救われるためには免罪符を買わなければならない、免罪符を買えば、洗礼を受けてから犯した罪はすべて赦される、そのように教会が教えたのです。

そのようにして、何かを行ったということで自分自身を正当化し、義人化し、人間はその行いによって救われるのだという教えがどんどん広がりました。その中で、マルチン・ルターは、救いが人間の行いによってもたらされるものではないことに気づきます。つまり、神の言葉の中に福音が宿っており、その福音の中にこそ救いがあることに気づいたのでした。つまり、救いは人間の行いによってではなく、一方的な神の恵みによって与えられるものであることに気づいたのです。

これに気づいたルターは、1517年、ヴィッテンベルク教会の扉に95か条からなる質問状を張り出しました。ここから、中世ヨーロッパのローマ・カトリック教会内に宗教改革運動が始まります。

それは、当時、強い権力を持っていた教皇中心主義や古い慣習に立ち向かう改革でした。ルターは、腐敗した教会の姿に気づき、そこに「否」と声をあげ、それを行動に移したのでした。そして、神さまから無償のめぐみとして注がれる福音の救いの神秘にすべてをかけたのです。

そのルターの改革精神のもとに私たちのルーテル教会は建てられました。福音の中に輝く神の救いの神秘を生きるということ。それはいつも新しいもので、新しい命なのです。そこに私たちは招かれ、生かされています。そして、福音の中に輝く救いの神秘は、すべてを一つにするものです。私とあなたが一つ、味方と敵が一つ、天と地が一つ、昼と夜が一つ、光と闇が一つ、死と復活が一つ、それがあの十字架なのです。これが救いの神秘です。

しかし、このような救いの神秘に招かれているはずなのに、宗教改革は、無数の分裂を生じさせました。一つであった教会は、引き裂かれ、分裂と争いが続き、カトリック対プロテスタントという不和の壁が生まれ、さらにプロテスタント教会はその中で多くの教派に分かれていったのです。

これが私たちの現実です。同じキリスト者なのに分裂し、対立し、自己主張の道を選び取っていく。

それから五百年後の2016年10月31日に、世界ルーテル連盟発祥の地であるスウェーデンのルンドで、カトリックの教皇フランシスコと世界ルーテル連盟議長のユナン主教の共同司式のもとに記念の礼拝がささげられました。数百年も対立してきたカトリック教会とプロテスタントのルーテル教会が、和解という福音を世界に証ししたのです。切り裂かれていたものが手を握り合い、互いの大切さを確認し、一緒に新たに歩みだすという、神の愛と赦しの道を選び取ったのでした。

今日イエスさまは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛し、隣人を自分のように愛しなさい。この二つにまさる掟はほかにない」とおっしゃられました。それは分断されたものが互いに和解するようにという招きです。分裂ではなく和解の道をこそ選び取るようにということ。

私たちは、神さまを愛しているのに、人には無関心でいるようなことはできません。神を愛する人は人を愛します。人を愛する人は神を愛する人です。

カトリック教会とプロテスタント教会はまだ主の食卓を一緒に囲むことができていません。このことを、イエスさまはどれだけ悲しみ嘆いておられることでしょう。イエスさまは、今日もわたしたちに告げておられるのです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛し。隣人を自分のように愛しなさい」と。このお言葉を、具体的に心から生きるものでありたいと思います。

閉ざされている心の目と耳が開かれて、福音の中に輝く救いの神秘に生きる、そんな一週間でありますようにと祈ります。

希望の源でおられる神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださいますように。父と子と聖霊のみ名によって。