幸いな者
マルコによる福音書12章38~44節
幸いな人
日本語の中に私が好きな言葉がいくつかありますが、その中の一つ、「そっと」という言葉が好きです。「そっと」という言葉が表す人の振る舞いを美しいと感じます。「そっとしておく」、「そっと聞く」「そっと見つめる」、「そっと来て、主日のために週報の準備やユーチューブの準備をしたり、お花を生けたり、蠟燭を整えたり、教会の周りの清掃をしたりして、そっと帰る」、…なんと美しい振る舞いでしょうか。人に気づかれないように行い、静かに耳を傾け、そっと去ってゆく。そこには、相手のことを思いやる尊い気持ちが豊かに含まれていると思います。
そして、これは同時に、とても情熱的なことを表す言葉です。知られないようにそっと何かを行なう人からは、情熱を感じます。何気なくやっているようで、しかし、誰からの評価も求めず、もくもくと同じことを繰り返して行なう。それは、その人の中に力が秘められているからです。その力とは信仰、つまりキリストの臨在からくる力ではないでしょうか。
大体の人は、悪いことはそっと行ないますが、いい事は誰かに話したくなるものです。「よくやった」と評価されたいのです。ですから、良いことを、そっと、誰にも気づかれないように行なうことは、「誉められたい」という執着からその人が自由であることを証ししていると思うのです。
さて、先ほど拝読された福音書の中には、「そっと」という言葉の表現にふさわしい一人の女性の姿が記されています。彼女はやもめで、当時の社会の中でもっとも弱い立場に置かれている人でした。
彼女が持っている財産は、レプトン銅貨二枚でした。それは、当時、元気な人が一日働いて得る賃金と言われる一デナリオンの64分の一に値するそうです。このことは、彼女がどれだけ貧しい人なのかをよく表しています。そのレプトン銅貨二枚を、彼女は、神さまへの献金として、そっと献げてしまいます。それを見ておられたイエスさまは、金持ちが捧げる巨額な献金より彼女は多くを献げたとおっしゃっておられます。「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(43-44)。
自分の全財産を捧げてしまいました。彼女は、これからの自分のすべてを神さまに委ねています。そんな彼女に対して、「それは今日の糧をかえりみない向こう見ずで無責任な行為だ」という批判もあるかもしれません。しかし、そのような批判は、彼女がそっと表す信仰の大胆さと情熱の豊かさに気づいていません。彼女は自由です。もう何も恐れていません。神さまへの圧倒的な信頼に満たされています。彼女はすべてをささげることによって、神さまのものすべてを自分のものにしたのです。神さまと一つになったからです。自分が生きているのではなく、偉大な方によって生かされるという謙虚さがそこにあります。シンプルで、透き通っていて、なんと美しい姿でしょう。
彼女は、今日がこの世での最後の一日のように生きる人でした。
教会の入口の掲示板に貼る今週の言葉ですが、今週は、彼女を表すような言葉を選んでみました。
踊りなさい 誰も見ていないかのように。
歌いなさい 誰も聞いていないかのように。
愛しなさい 一度も傷ついたことがないかのように。
生きなさい 今日がこの世での最後の一日であるかのように。
人を意識しない、自分を束縛してきた古い習慣やしきたりのようなものから自由になって、自分のありのままを生きることをうたっています。聖書のやもめは貧しさからも自由になりました。
今日は全聖徒主日です。コロナ禍のためにいつものように集まることはできませんでしたが、皆さまとこうして覚えて祈りをささげられることを、心より感謝いたします。
私は、召された方々のことを祈るたびに、実に多くのことをこの方々から学ばねばならないと感じます。神さまと共に生きられた方々が、その最後の瞬間まで、命の根源でおられる神さまの御手に自分のすべてを委ねたのです。何もかも委ねてしまったから、今、神さまと共におられるのです。
人は、本当に貧しくならなければ、神さまに自分のすべてを委ねられないと思うのです。私自身がそうだからです。経済的なことも、健康も、命も、自分の力ではどうすることもできないのに、自分で何とかしようとするから、委ねられないのです。ですから、私って本当にちゃんと死ねるかなと思ってしまいます。
自分に与えられたすべてを神さまに帰し、神さまと一つになって安らぎを得られた方々とともに、今私たちは礼拝を守っています。この教会に連なっておられた方々は、この礼拝堂の右と左に設けられている銘板にその名が刻まれています。
数ヶ月前になりますが、この銘板を作られた三輪千代様をお訪ねした際に、銘板について、とても素敵なお話を伺いました。私が、「四つの銘板のうち古いものは色が失せてきて、貼ってあるネームプレートもくすんできて、読めなくなってきましたので磨いた方が良いですか」と伺いましたら、三輪さんは、「それが当たり前で自然なのだからそのままにしておきなさい。それは、銘板とネームプレートが一つになっていく過程なのだから」とおっしゃるのです。そこで、私は、鎌倉彫の本当のことを学ばされました。作る過程において、掘ったものを何度も整え、下塗りをしては磨き、重なる中塗り、そういった時間をかけての作業を重ねてやっと一つのものが完成される。彫り始めるときから完成まで、長い時間がかかるのはもちろん、それが他のものと出会ったときに変化していくということに、私は深い興味を持ちました。
銘板とネームプレートが互いの姿が消えて一つになっていくということは、長い時の中で一緒に「生きている」ということにほかなりません。少しずつ、少しずつ、互いがそっと委ね合い、新しいかたちに変わってゆく。生きているのです、そっと。そしてそれをそのままにしておくように、ということ。
銘板と召天者のネームプレートのこと、そしてレプトン銅貨二枚を奉げてしまったやもめ。このどちらも、そっとした静かな営みを示しています。しかし、イエスさまはその営みの一つも見逃すことなく、そっと見ておられます。献金をささげるやもめの気づかないところで、イエスさまは彼女のささげる姿を見ておられました。
そしてそれは、この召天者の銘板に名が載っておられる方々の人生もイエスさまがそっと見ておられたと言うこと。さらには、ここに集っている私たち一人一人の歩みをも、そっと見ていてくださっています。何のために?愛するために、です。そのイエスさまの瞳に守られていることを信じるが故に、私たちは、まだイエスさまを知らない私たちの家族や知人の人生の歩みも、イエスさまの大きな瞳の中に守られていることを信じることができます。私と同じように私の家族も、他者とのつながりの中で悩んでいる、愛する者を失った深い悲しみの中にいる、思うように進まない現実と向かい合おうとして闘っている、病に冒されて大変な日々を送っている、その私と隣人の姿すべてを、そっと見つめてくださっているのです。そして、私たちが、自分の人生に疲れて歩けなくなってしまったときには、その私たちを大きな背中に乗せて、私の歩むべき道を歩いてくださっています。私たちを背負って歩いてくださる十字架の神の、そっと人を愛する情熱的な姿に、私たちは、今まで、きっと何度も出会っていると思います。そして、私たちより先に御許に帰られた方々も、神さまの大きな背中に背負われてその人生を歩まれました。神さまの愛の中を生きたのです。どんなに幸いなことでしょう。
これからも、そっと私たちを見つめ、私たちの弱さを担ってくださるイエスさまは、私たちが暗闇の中でも恐れることなく、自由に自分を生きることを願っておられます。
それゆえ、さあ、踊りましょう 誰も見ていないかのように。
歌いましょう 誰も聞いていないかのように。
愛しましょう 一度も傷ついたことがないかのように。
生きましょう 今日がこの世での最後の一日であるかのように。
私たちに与えられてこれからの歩みのときが、自由で幸いな日々でありますようにお祈りいたします。
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