産みの苦しみの始まり
産みの苦しみの始まり
(マルコによる福音書13章1~8節)
いよいよ教会の暦は終わりに近づきました。先週の説教で「今日がこの世で最後の一日であるかのように生きなさい」という言葉を紹介しましたが、まさにそのように生きるべき季節です。それで、本当に今日がこの世で最後の一日だったら、私は何をするのだろうと考えてみました。値段が高くて手の出なかったものを食べる?しばらく声を聞いていない人に電話をする?部屋を片付けて要らないものを整理する?・・・皆さんはどんなことをなさいますか。
さて、弟子の一人がエルサレム神殿を指さしてイエスさまに、「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と絶賛しました。するとイエスさまは、「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」とお答えになりました。
エルサレム神殿が建てられたのは、ソロモン王のときです。ダビデ王が建てる計画をしていましたが、神さまに止められて、息子のソロモン王の時代に建てられました。それを第一神殿と呼びます。しかし、ソロモン王が建てた神殿はバビロンの侵略を受けて壊され、バビロンの捕囚から帰ってきた年に(BC515年)、ほぼ同じ場所に再建されます。それが第二神殿です。
そして、BC20年、ヘロデ大王によってエルサレム神殿が拡張され、すべての部分が改築されました。ヘロデ大王の時代に改築されたのでヘロデ神殿とも呼ばれました。今日、一人の弟子が絶賛している建物が、このヘロデ神殿と呼ばれるエルサレム神殿です。しかしイエスさまは、見とれるほど立派なものでも、「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」とおっしゃっておられるのです。
実際、エルサレム神殿はAD70年のユダヤ戦争のときに、ユダヤ人がこの神殿の中に立てこもったために、ローマ帝国の攻撃によって破壊されてしまいます。「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と言われたイエスさまの預言が実現されたのでした。こうして壊された神殿は、今は嘆きの壁という形で残っていて、ユダヤ教とイスラム教とキリスト教の聖地になって、大勢人が訪れる場所になりました。
目に見えるものは、やがては、必ずその姿が失せてゆきます。
鵠沼に引っ越すことになったときに、大宮教会で親しくしていた方から、ドイツ製のワイングラスを二ついただきました。とても気に入っていたものですが、昨年の暮れにお客さんが落としてしまい、あまりにも簡単に割れてしまいました。一瞬、戸惑いましたが、片付けながら「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」とおっしゃったイエスさまのお言葉を思い出しました。「これらの大きな建物を見ているのか」は、新しい聖書では「この大きな建物に見とれているのか」と訳されています。私は、見とれていました。形あるものに執着し、いつまでも自分のものとして手元に置きたかったのです。
物だけではなく、この体も姿を失せてゆきます。どんなに大切に守ろうとしても、やがては一握りの灰になって土にまかれるようになるのです。その体をどう生きるか、それが私たちの課題であります。つまり、自分の体に執着して生きるのか、それとも、キリストが宿られる器として、この体のすべてを差し出しながら生きてゆくのか、暦の終わりを迎えている私たちは問われているのだと思うのです。
イエスさまは、弟子たちに対してこうおっしゃいました。
「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」。
人は誰も、自分の見解を主張したがります。イエスさまは、人の中に人を惑わすものを持っていることをご存知でした。常に自己を主張し、それを通して自己を実現したがるのが人であることをイエスさまはよく知っておられます。私も、牧師たちの中で私の神学的見解が一番だと思っています。だからと言って、それが絶対的なことだとは思っていません。私自身の中でも今の見解は変わってゆきますし、学びの途上にあるものにすぎないのです。それなのに、主張したくなるのです。
以前、エイズという病気が現われた時も、人類を滅ぼす病気と言われ、神が人間に下した罰のように考える人がたくさんいました。そして、エイズにかかった人は人々から差別を受け、一般社会から身を隠さざるをえなくなりました。今、エイズは途上国の病気のように思われるようになり、最近はあまり話題にもあがらなくなりました。しかし、先進国の中でも日本はエイズ患者が増えている国です。今は薬もあり、治療さえ受ければ死にいたる病気ではなくなりました。それにもかかわらず、根強い偏見と差別がエイズ患者に向けられています。
一方的な見解は、このようにして人と人との間に分裂を起こし、正しい人と正しくない人を分けて、目に見えない大きな壁を立てることによって境界線を引きます。 エイズが現れて半世紀が過ぎている今もそれに対する差別と偏見はなくなりません。
このような一つのことに対してもつその人の見解は、立派な建物の表面を飾る美しい石のようなものです。私がエイズにかかった人に対して強い反感を持ち、その人に対して差別的な発言をして関係を拒んでいるならば、私は偏見と差別で私を築き上げ、その中に住むような者になります。
その私に向かってイエスさまは、そうではなく、一つのことをそのままのそれとして見るシンプルな見方を持つように、弟子たちへのお言葉を通して語りかけておられます。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」。
私たちはキリストが住まわれる神殿です。使徒パウロがそう述べています。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」(1コリント3:16~17)。
そうなのです。私たち一人一人はキリストが住まわれる神殿で、尊い器なのです。神殿では、新しい年を迎えると救い主を産む準備を始めます。つまり、救い主が生まれるところは、みすぼらしい家畜小屋であって、弟子たちが見とれて絶賛していたエルサレム神殿ではありません。富みや権力によって美しく飾られた丈夫な建物ではなく、富みや権力から追いやられた人々の生計が営まれる、そのただ中に救い主は生まれるのです。神さまは、家畜小屋を救い主の誕生の場として選ばれたのでした。
長い間身につけていたもの、それが精神的なものであれ、物理的なものであれ、それを手放すためには大きな勇気が必要です。しかし、身ごもったお母さんがお腹の赤ん坊のために食べ物の味も化粧品の香りも、何もかも変えられてゆくように、新しい命が宿ったことに気づかされたときに、人は変ります。宿られた方に合わせて自分が変ってゆくのです。きっとそこには葛藤や苦しみが伴われることでしょう。しかしそれは産みの苦しみ、それは、産声をあげた新しい命との出会いによって大きな喜びに変ります。
希望の源でおられる神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、あなたがたを希望に溢れさせてくださいますように。 父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。