私のクリスマスソング

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私のクリスマスソング

(ルカによる福音書1章46~55節、マリアの賛歌)

今日は、先ほど拝読された福音書と交読のために選ばれた讃美唱のマリアの賛歌を通して皆さんと福音を分かち合いたいと思います。

マリアの賛歌として名づけられているこの賛歌には原型があります。大昔、イスラエルの民がエジプトを出て、海が分かれる奇跡を目の前で体験し、神の偉大さを称え歌った「海の歌」が出エジプト記15章に出てきます。このとき預言者ミリアムは、女性たちの先頭に立って音頭を取り、一緒に楽器を鳴らし、踊りながら歌いました。それがいちばん古いものです。

それが原型になって、少し形を変えて歌われたのが、サムエルの母ハンナの歌です。子どもが産まれないことへの偏見に耐えていたハンナは、子どもを授かり、神への賛美を歌いました (サム上2:1~10)。

今日私たちが交読したマリアの賛歌は、サムエル記のハンナの歌が、少し歌詞を変えてマリアによって歌われたものです。

そのように、時代によって歌詞は変わりましたが、これらの賛歌には共通していることがあります。これらの賛歌は、律法や人々の偏見と差別という束縛から、神の介入によって解放された人たちの歌です。つまり、弱い立場に置かれた人たちの歌であって、きっとこれからも神さまがすべてを導いてくださるに違いないという確信に満ちた歌です。

大昔、まだ世界でクリスマスが祝われる以前に、一人の少女が神を褒め称えて歌っています。

私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから…」。

賛歌を歌うマリアのお腹には「イエス」という名の子どもが宿っています。マリアは、天使から「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げられて、「お言葉通りこの身になりますように」と大胆に返事はしたものの、心の深いところの戸惑いを抑えることができません。そして、天使が去るや否や、エリザベトのところに向かいました。それは、天使から、年を取っているエリザベトも身ごもって、もう6ヶ月にもなっていると告げられたからです。マリアは、エリザベトに起きていることを自分の目で確かめようとします。なぜなら、マリアには自分の出来事を共有できる仲間が必要だったのです。

先ほど読まれた福音書の始まりには、「マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」と書かれています。エリザベトのところに急いで出かけていったマリアは、三ヶ月間もエリザベトのもとに滞在しました。

新しいことを始めるためには、それを理解して支えてくれる仲間が必要です。どんなに立派な人でも一人で何かを始めることはできません。自分がやろうとしていることを理解して、励まし、応援してくれる仲間が必要なのです。

マリアにはその仲間が必要でした。エリザベトとマリアは親戚ではありましたが、かなりの歳の差がありました。しかし、この二人には共通していることがあった。それは、二人が、神さまの大きな業(わざ)の中に置かれているということです。そしてそれは、歳の差を超えて結ばれるにもっともふさわしい理由でした。その二人が結ばれるために、天使ガブリエルが仲介の役割を果たしています。

このような天使の働きが、私たちの暮らしの中にもあることを、ルターは述べています。仲介者天使の導きによって、自分と同じ立場に置かれているエリザベトに出会い、マリアは自分の身に起きていることを、確信をもって受け入れることができました。そして、自分の身に偉大な業をなさろうとしておられる神さまを褒め称える賛歌をマリアは歌っているのです。「身分の低い、このはしためにも目を留めてくださったからです」と。

小さくて弱い女性の体を用いて、神さまが偉大なる救いの出来事を起こそうとしておられる。つまり、身分が低く、徹底的に貧しく、人々から指差されるような状況に追いやられている小さな少女の人生のただ中に、神さまご自身が入って来られ、ご自分を現そうとされるのです。

私たちの理性では、もう少し家柄も良くて経済的にも恵まれていて、知的な女性の方がふさわしいと思うかもしれません。しかし、神さまは、人が見るようには見ておられないということです。

つまり、私たちは愛するものや大切なものをなくしてしまったときに、「失ってしまった」と悲しみに暮れ、失望の日々を過ごしますが、神さまは「見つけられた」と宣言し、新しい始まりを準備しておられるのです。私たちが取り返しのつかない失敗の中で「裁かれたのだ」と嘆くとき、神さまは「救われた」と宣言し、喜びの歓声をあげられます。人が無関心で、傲慢な態度で、見て見ないふりをして通り去るところで、神さまは留まって、心を注がれ、働きかけてくださるのです。人間が軽蔑し、価値のないものと判断して見捨てたものに、神さまは祝福を宣言されるのです。人が自分の人生を思い返して、恥ずかしくて、「このような私なんか見捨てられるに違いない」と絶望するとき、神さまは、その私と共におられ、幸いな者と祝福されるのです。

同じ群れとされて、一つの釜から霊的メッセージをいただき、良いことも悪いことも共に担って一緒に生きるようにされた私たちは、互いに導き、導かれてゆくために出会ったのです。私たちは、尊い聖なる出会いを果たしているのです。マリアがエリザベトに出会って、自分と共通の立場に置かれていることを確認して強められ、それから神さまの偉大なる業を称えて賛歌を歌ったように、私たちにも、賛歌が生まれておかしくありません。

確かにマリアは、目に見える形で神さまの奇跡を体験しています。ですから、彼女は「恵まれた方」です。しかし、マリアが歌うように、私たちも歌うのです。福音を伝えるために、希望と喜びを告げるために、私たちも自分の賛歌を歌おうではありませんか。

神さまは、マリアのように賛歌を歌う人を探しておられます。

私は、歌うことは好きですが、音程が安定していないので、いつも友達に笑われます。

その私が日本に来たばかりの若かった頃は、教会の聖歌隊で歌っていました。パートはソプラノでしたが、指揮者が、だれの声かは言わずに、ソプラノパートの方に向かって、音が外れていると指摘したとき、それはいつも私のことであったと思います。ですから、一人の方が安心して歌えるので、牧師館では大きな声で歌っています。幼稚園にまで聞こえているのではないかと心配するときもあります。

歌うことで気持ちが高揚し、心が開かれていきます。自分の中の暗闇がどんどん外へ追い出されてゆくような気がします。時には、人が書いた歌詞に自分の心の状況を反映させて、少し歌詞を変えて歌うときもあります。

マリアも、大きな困難の中におかれていた昔の女性たちが歌っていた歌を、自分なりの歌詞をつけて歌っています。

私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから…」と。

この歌を通してマリアは私たちを招いています。「一緒に歌おう」、「あなたの声で、あなたの音程に私も合わせるから、一緒に歌おう」と。

今年のクリスマスには、私たちも、私たちの中に偉大な業を繰り広げられた神さまを称えて賛美する、自分だけのクリスマスソングを歌えたらと思います。いつかその歌を発表できる場を設けたらいいかもしれません。

もうすぐクリスマス。大胆に賛歌を歌ったマリアは、初めての出産を馬小屋で迎えました。希望と喜びを宿した人には、お産の場所が馬小屋であってもそこは神の国になるのでしょう。その馬小屋までの道のりが、どんどん近づいてきました。さあ、賛歌を歌いながら馬小屋まで歩き続けましょう。

希望の源でおられる神が信仰から来るあらゆる喜びと平和とを持ってあなたがたを満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。