霊の賜物で染めて

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 霊の賜物で染めて

ヨハネによる福音書2章1~12節

先週は洗礼のことを想起し、私たちはもう一度原点に戻って新たに歩き始めたのでした。そして今日、私たちは、イエスさまが公生涯の中で最初に行われたカナの婚礼での奇跡物語に与ります。カナの婚礼でイエスさまは、水がぶどう酒に変わる奇跡を行われました。ぶどう酒は婚礼の場には欠かせないものです。

この物語が主の洗礼日の後に置かれるということは、洗礼を受けた者の歩み方をこの物語を通して現そうとしているのだと思います。つまり、洗礼を受ける前の、歩むべき道を見失っていた私たちが、真の道に導かれて、必要な場で必要な働きをし、必要としている人に必要なものを届けて、隣人と共に生きる者へと変わってゆく。それを通して神さまの永遠に触れる者になってゆくということを、この物語は私たちに指し示しているのではないでしょうか。

さて、この物語の舞台は結婚式場です。イスラエルの結婚式は長時間に及ぶものだそうです。まず花嫁の家で長い時間をかけたお祝いが開催されます。そして次に、花婿が花嫁を連れて花婿の家に帰り、そこに親戚や友人、近所の人たちを招いて、長いときは一週間にもわたって祝宴が続くと言われます。その祝いの席に不可欠なのがぶどう酒でした。パレスチナ地方は乾燥地域で、ぶどうの栽培が適しています。旧約聖書や新約聖書の中にぶどうの木やぶどう酒がよく登場するのも、そういう地域性があったからでしょう。

教会の中には、禁酒を勧める教派もあります。ただ聖書ではこのように述べています。ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ、パンは人の心を支える」(詩104:15)

 カナの婚礼の場で、欠かせないぶどう酒が尽きてしまいました。そのことにいち早く気付いたのは、母マリアでした。マリアはイエスさまに告げます。「ぶどう酒がなくなりました」と。しかしイエスさまは、ご自分とは関係のない話を聞いているかのような返事をしておられます。マリアはそのようなイエスさまのお返事には構わず、召し使いたちに「この方が言いつけるとおりにしてください」と頼んでその場を離れます。ここに、マリアのイエスさまへの深い信頼を見ることができます。

そのマリアの信頼に応えるように、イエスさまは、召し使いたちに、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と命じられるのでした。そこには、二ないし三メトレテス入りの水がめが六つもあり、召し使いたちはそれらすべてに言われるまま水を汲み入れました。一メトレテスは換算すると約40リットルだそうです。つまり、ここには80ないし120リットルの瓶が六つあって、それらにいっぱいに水を満たすことは、かなりの量です。

召し使いたちは、イエスさまに言われるまま、瓶に水を満たし、そこから汲んで宴会の世話人にもって行きました。その途中で水がぶどう酒に変わったのです。

そこで世話役は花婿を呼び出してこう言います。

「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」と。事の成り行きを知らない世話役は花婿を褒めていますが、聖書は、「水を汲んだ召し使いたちは知っていた」と記しています。イエスさまの近くにいて指図するとおりすべて従った召し使いたちだけが、イエスの行われた奇跡のすべてを見届けたのでした。

しかし、今日のこの物語の中に、その奇跡を見届けている召し使いたちの驚きなり、感想のようなものは一言も記されていません。意識して読まなければ、ぶどう酒の奇跡物語の中にその存在さえ埋もれてしまうほど、この召し使いたちは静かな存在です。マリアとイエスさまに言われるまま黙々と働いているこの召し使いたちは、誰なのでしょうか。

今、オミクロン株が流行り始め、日本でも感染者数が何万人単位で数えられるようになりました。次から次へと変異して世界を脅かしているウイルスによるパンデミックな状況。人類はピンチを迎えていると言えましょう。戦争ではなく静かなウイルスの前に、人間は、ほんとうにちっぽけなもので、成し得るすべもないまま多くの人が命を失いました。ある程度生活がウイルスに慣れてきたとは言っても、私たちの中には不安と恐れがあります。そして、自粛モードの中で疲れも溜まっています。

しかし、確信をもって言えることは、この状況は必ず過ぎ去るということ。永遠に続くようなことではないということです。しかし、この状況が過ぎ去ることに耐えて、ただ待つのではなく、こういう状況の中に置かれていても、私たち一人一人は、必要なところで必要な働きを担う者、神さまにとっては欠かせない者として招かれているのです。そのことを忘れてはなりません。ぶどう酒が婚礼の場には欠かせないものであって、婚礼の客の心を喜ばせ、新郎新婦を祝福する大切な場を盛り上げるように、私たち一人一人は、隣人の不安や恐れを取り除き、隣人の必要を満たす者となるために、神さまの働き人として招かれているのです。

水は水のままであるときにも命あるものに欠かせない大切なものでした。同じく私たちも、洗礼を受ける前も家族や隣人にとって大切な存在でした。

しかし、洗礼を受けた私たちは、より多くの教会家族と結び合わされ、その家族の一員となった私たちは、自己利益を求めることから自由になるようにと招かれています。洗礼を通して、私は、神さまが造られた宇宙の被造物の中の一人であり、みなが私の家族として私につながっていることを、改めて知らされるのです。

大自然や全人類とのつながりの中の一人という意味では、私たち一人一人はとても小さな存在です。しかし、その小さな私が存在しなければ大自然も人類も存在することが危うくなる、これほど私たちは大切な存在として大地のすべてのもの、すべての人につながっているのです。それを知らされる時に、洗礼を受けてからの歩みを、どうして私たちは自分勝手なことにつなげてしまうことができるでしょうか。

私たちは、全人類の一人としては小さいけれども、決して小さなものではありません。小さな子どもであれ、よたよたの年寄りであれ、私たち一人一人は、二ないし三メトレテスの水がめのように大きな器なのです。

水がめは、イエスさまに出会うまでは使われないまま、空っぽのままでした。しかし、イエスさまに見つけられて水がめは水でいっぱいに満たされました。水がめは、その本来の役割を担うようになったときに、その中身が、婚礼の場にとって欠かすことのできないぶどう酒に変わったのでした。

そういう器として私たちはイエスさまに見出され、イエスさまの洗礼に与ってここにおります。その私たちにイエスさまは告げられます。一人一人に委ねられた量に相応しく、霊の賜物でいっぱいに満たしなさいと。そして、満たされたその賜物はもっとも必要な場へ、必要としている人のところへ運ぶようにと。

いただいた賜物は、使わないで私の中に納めたままでは、ただの水のままの状態です。しかし、それを差し出して人の必要を満たすそのときにはじめてそれはぶどう酒のように、人を喜ばせ、その場を生かすものに変わります。賜物が神さまの永遠と結ばれて美しい色に染まって輝くようになるのです。その働きは一人ではできるようなことではありません。共に働く召し使いたちの仲間がいます。ですから、どうして私にそんなことができるだろうと心配する必要はないのです。困難な状況にあっても、私たちに与えられている賜物が用いられるために、私たちの歩みを謙虚に委ね、遣わされてゆきましょう。

 

希望の源でおられる神が、あらゆる喜びと平和とをもってあなたがたを満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。