愛する人になる
ルカによる福音書4章21~30節
愛する人になる
今日は会員総会の日です。去年は、集まることができませんでしたが、今年は、紙面も活用しながら、ご意見や質問を交わす場を設けることができました。
新しい年度の宣教指針は、1コリントの信徒への手紙1章10節から「心を一つにし、思いを一つにする」という言葉を選びました。
この言葉は、コリントの教会内に分派争いが起きていたときに、パウロが出した手紙の中に出てくる言葉です。
コリントは港町で、外から多くの情報が入ってくる所で、教会もその影響を受けました。教会に集まる人たちの中には、宗教に対して多様な関心をもつ人々がたくさんいて、それは、後になって共同体を悩ますことになります。
パウロがコリントに滞在したのは一年半ほどの期間でした。パウロが退いてから、次にアポロという人がきて宣教を始めますが、そのとき、コリントの教会に分裂が起き始めます。特に、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間で様々な問題が起こりました。食べることについて、聖餐式について、復活にについて・・・重要なことをめぐっていろんな説を立てての分派争いが始まったのです。それによって、「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロにつく」、「わたしはケファにつく」、「わたしはキリストにつく」と、共同体の仲たがいが始まり、そのことをパウロは知らされたのです。それで、その状況を改善しようとパウロは、心を一つにし、思いを一つにして、固く結び合いなさいという勧めの手紙を書いているのです。
その言葉を、今年は私たちの教会の宣教指針として選ばせていただきました。
「心を一つにし、思いを一つにする」ということは、どんなに難しいことでしょうか。教会には多種多様な人が集まり、それぞれ背景が異なり、それによって考え方も違う、その一人一人の集まりが教会なのです。さらにはコリントの教会のように、宗派や教派についてさまざまに異なる考えをもつ人々がたくさん集まる教会が、心と思いを一つにして、キリストにつながる共同体を形成することは、本当に大変なことと思います。
しかし、心と思いを一つにすることは、それこそ、教会の命なのです。
心と思いを一つにすること、それは、一致です。多様な賜物をもっている人々が、一人の主の前に集い、心と思いを合わせて賛美し、福音を分かち合い、宣教の働きに出かけてゆくということ、それを通して、教会がキリストの体を現す、それが教会の宣教だと思います。
しかし、教会の中で分かち合われるべき福音が福音ではなく、人の言葉に留まるとき、つまり、人の理性の中でだけみ言葉が捉えられ、議論され、理解されることに留まるとき、その共同体はキリストの体を現すことができません。人の理性では、十字架のキリストの体は恥ずかしいものとしか映らないからです。理性の中に留まる信仰者は、家族や友人や職場へ行っても、自分がキリスト者であると現すことができません。そして理性の中に安住するとき、その枠を抜けだすことを、私たちは躊躇してしまうのです。そういうときに、教会の宣教は停滞し、仲間間の交わりは喜びを失ってゆきます。そこでは、新しいこと、新しい考え方、新しいやり方へのいら立ちさえ生じます。
このことを、今日の福音書はわかりやすく表しています。
イエスさまは安息日に会堂に入って聖書を朗読されました。このときの人々の反応を福音書は次のように記しています。「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか。』」と。ここに示されるのは、恵み深い言葉に驚いてしまったが、なんだ、相手はヨセフの子じゃないか、というような、疑いの反応です。つまり、ヨセフの子くらいが自分たちを前にして恵み深い言葉を述べてはいけないでしょう、というような反応です。
それは、今まで聞いたことのない新しい恵みの言葉を、まさか貧しく身分の低いヨセフの子からは聞きたくないという思いです。『この人はヨセフの子ではないか』という、瞬く間に沸き起こった一つの思いが、イエスさまへの敵対心を生み、それからはその人が話す言葉はすべて聞きたくないと思うようになりました。
この人々の思いは、分派争いを始めたあのコリントの教会の人々の思いと似ています。人間が中心になっているのです。神さまはただの飾りになっています。だから、神さまの権威をもって聖書朗読をされたイエスさまの姿に惚れつつ、現された神さまの姿を一所懸命に脇へ追いやろうとしています。
そのような人々の心の中をご覧になったイエスさまは、エリヤやエリシャの古い時代にまでさかのぼって、あなたがたのように、先祖たちも神から遣わされた預言者を受け入れようとして来なかったと述べられます。そのことで、ますます人々は怒りをあらわにします。そしてとうとう、イエスさまを山の崖の方へ連れて行って突き落とそうとします。
「心を一つにし、思いを一つにする」。つまり、キリストにあって一致する。キリストの体を現す群れになる。それをほかの言葉で表現するなら、愛に生きる人になると言えると思います。
二人の人が愛し合うとき、相手のために自分のすべてを差し出してもいいと思います。そして子どもが出来たら、親はその子を愛し、その子のためならば命さえ惜しまないと思います。たとえ、どんなに子どもがすねをかじっても、その子を子どもじゃないとはいいません。それが親心なのです。
そしてわたしたちには、それにも勝る親心が注がれています。神さまの愛です。私たちがさ迷って暗く長いトンネルを歩くときも、どんなに身勝手になり神さまを脇に追いやろうとする日々にも、神さまは決して光を消すことなく、私たちの歩くべき道を照らしてくださいます。
そして大切なことは、私たちはその愛を知っているということです。私たちは神さまが私たちを愛してくださっていることをよく知っています。知っているから、こうして毎週の日曜日に教会に集まるのです。自分が愛されていることを心から知る、それが教会の宣教の目的です。
それは、愛し合う二人の人の愛とも、親子の愛にも似ています。愛されていることを知るときに人はそれに応えようとするのです。
ですから、私たちは、神さまの愛に応えようとしてここに集まり、一人の主イエス・キリストの福音に与っているのです。そのうえさらに、集まっている仲間同士が、神さまの愛の中で、イエス・キリストの福音によって「心を一つにし、思いを一つにする」ように、そして一致のために働くようにと招かれているのです。つまり、この教会が十字架の主イエス・キリストの体であることを、特に新しく訪れてくる人や、まだキリストを知らない人々に現していくようにと私たちは呼ばれています。
そのためには、理性から霊性へと自分の信仰の歩みを変えてゆく必要があります。霊性は祈ることを通してのみ養われます。
パウロの次にコリントの教会に来たアポロは、理性の人でした。聖霊の働きを信じない人でした。そのことが使徒言行録19章に記されています。アポロの下で洗礼を受けた人は、水の洗礼だけがすべてだと信じ込んでいました。しかし、パウロが手を置いて祈ると、その人の上に聖霊が降り、預言をするようになります。
私たちはどうでしょうか。
聖霊の働きに寄らなければ、十字架のイエス・キリストの体を生きる働きはできません。ですから、日常生活の中に祈りのスペースをつくり、与えられた一日の中のたった数十分だけでも、神さまとの交わりのために聖別するのです。この私のもっとも弱いところにおられて、私を愛し生かしてくださっているイエスさまに気づくために、ほんの数分だけでも、み言葉を黙想し、黙想したみ言葉を一日吟味しながら過ごしてみる。そして夜は、吟味したみ言葉がどのように私と交わってくださったのかを整理して、書いてみる。
そういう過ごし方の中で、私たちの霊性が養われます。そしてそれはある力になります。イエスさまは、私が嫌いなあの人の中にもおられるという事実を受け入れられるようになるということです。つまり、嫌いな感情を引き起こしている原因は、相手ではなく自分自身の内側にあることに気づかされるようになります。そのとき、私たちは、赦しという神さまの奇跡の業に加わる者にされます。身勝手に人のことを嫌い、脇へ退かせようとわがままな自分が赦されている。とんでもない神さまの愛に気づくようになるのです。それが、十字架のイエス・キリストの体を現すということであり、その時に初めて私たちは、「心を一つにし、思いを一つにする」群れになるのではないでしょうか。
希望の源でおられる神が、あらゆる喜びと平和とをもってあなたがたを満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。