フロントランナー

Home » フロントランナー
20220220_004428072_iOS

ルカによる福音書6章27~38節、創世記45章3~11,15節

フロントランナー

私が購読している新聞は、毎週の土曜日に別紙がついてきますが、そこにはいろいろの分野で先を歩くフロントランナーたちの紹介があり、興味深く読んでいます。昨日は「おばさん」にエールと連帯をというオンライン番組で、五十代の女性たちが抱えているいろんなことを気楽に話せる場を導き、多くの本を書いている一人のアナウンサーが紹介されていました。

毎週、このフロントランナーたちの記事を読むたびに、ほんとうにいろいろのところで多くの人がんばっていることを知らされ、励まされます。

先ほど拝読していただいた旧約聖書のヨセフとその兄弟たちとの物語は、とても有名な個所で皆さんもよくご存じのところです。

ヤコブには十二人の息子がいましたが、その中でも、愛する妻ラケルから生まれたヨセフをヤコブは偏愛し、そのためにヨセフは他の兄弟たちから憎まれるようになります。また、ヨセフは神さまから、夢を見、夢を解くという特別な賜物をいただいていました。兄弟たちはヨセフのその賜物にも嫉妬し、憎しみを抱き、ヨセフを殺そうとします。しかし、長男のルベンが兄弟たちの間に入りヨセフを殺すことを止めさせます。結局、ヨセフは兄たちから水のない穴に投げ込まれますが、ミディアン人の商人に救われてイシュマエル人に売られ、エジプトへ連れて行かれてファラオの役人であるポティファルの家の奴隷となります。そこでヨセフはその賜物を発揮し、終にはファラオの夢まで解釈し、その結果、国に大きな利益をもたします。そのようにして、ヨセフはエジプトの総理大臣になりました。

それからエジプトにもカナン地方にも大飢饉が起こり、エジプトの人々はヨセフがファラオの夢を解いたことで食べ物を備蓄し飢饉を生き延びていましたが、兄弟たちがいるカナン地方の人々は、食べ物をエジプトから調達しなければ、生き延びることが難しい状況になりました。先ほど拝読された個所は、エジプトに食べ物を買いに来た兄弟たちとヨセフとの再会の場面です。

自分を殺そうとして穴の中に投げ込んだ兄弟たちが今自分の目の前にいます。皆さんだったらどうしますか。私だったら昔のそのときに戻って、彼らの行ったことを責めたと思います。どうして私のことを憎んで、殺そうとし、服も脱がして穴の中に投げ込んだのですか。兄弟なのに、どうして私にそんなひどいことができますかと責め続けることでしょう。

しかし、ヨセフの心は満たされていて、過ぎたことにくよくよしていません。苦しみの中で赦そうと努力するような様子もありません。初めからヨセフは神さまと共に生きる人でした。復讐され、殺されるかもしれないと恐れている兄弟たちに向かってヨセフは言います。「命を救うために、神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのです」(創45:5)と。ヨセフは、フロントランナーです。神さまの赦しと愛の道を先頭に立って歩く人です。

ヨセフは、すべては神さまの摂理の中でなされたことと受け止めているのです。彼は、神さまと共に生きる人で、人々の先を歩く人です。この世の価値観の中を生きる兄たちが、一度も歩いたことのない道を堂々と歩き、今その途上での見解を述べています。「命を救うために、神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのです」。

兄たちはヨセフより年上で、経験も豊かなはずですが、ヨセフが歩く道は知らない人たちでした。目には目、歯には歯という価値観でしか歩いたことがないので、兄たちの心は恐れでいっぱいでした。その恐れからヨセフを見るので、ヨセフのことも自分たちと同じようにしか見えず、きっと自分たちに復讐すると思ったのです。

あるところに賢者がいました。どんなことでも知恵をもって話すので、その賢さが知られるようになりました。ある日、ある人が道を歩いていたらその賢者にばったりと出会いました。彼は、賢者を怒らせようと、話しかけました。「おい、賢者さん、私の目にあなたは賢者どころか豚に見えるよ」と。すると、賢者は、怒るどころか、はははと笑うだけでした。怒らせようとした人は戸惑い、賢者にこう聞きました。「じゃあ、あなたの目に私は何に見えるのか」と。すると賢者は、「私にはあなたが賢者に見えます」と答えました。その人はびっくりして「どうして?」と聞きました。賢者は「豚の目には相手が豚にしか見えないし、賢者の目には相手が賢者にしか見えないのです」と答えたそうです。

私の視点、私がどう見るかによって物事は変わるということでしょう。つまり、私の心の中にあるものによって、相手をどのように理解するかが決まる、そのことをこの話は伝えているのだと思います。

人が抱えている問題、それら自体はただそれに過ぎないものです。しかし、私がそれを見るとき、自分の心の色眼鏡を通して見るので、それをありのままに見ることができないのです。

私の心も、ヨセフの兄弟たちのように恐れで満ちています。いつも時間に追われているので、心は、常に早く、早くと焦っています。一週間が回ってくるのがあまりにも早く、担っていることに対する責任をすべて果たせるかどうかという不安もあります。さらには、今自分が選び取っている一つ一つのこと、どんなに小さなことでも、忙しさや悩みの中で決めなければならないときに、間違っていたらどうしようという恐れがあります。そういう恐れの中にいると、人や仕事、その他の物事を正しく見ることができません。しかし、それは、私の心の状態がそうであるということであって、相手がそうであるということではないのです。自分の内面の状況に合わせて相手を捉えようとするから、思うようにならない相手が敵になって行く場合も生じてしまいます。

今日、イエスさまは、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさい」(27‐28)と勧めておられます。

自分に良くしてくれる人さえも自分の色眼鏡を通して見ている私に向かって、私のことを憎み、呪い、侮辱する人に対して祝福を祈るようにとおっしゃるのです。このイエスさまのお勧めをどうやって受け入れることができますか。もちろんそれは、色眼鏡を外すことしかないと思うのですが、どのようにして自分が色眼鏡をかけていることに気づき、どのようにしてそれを外すことができるのでしょうか。

昨日から幼稚園の子どもたちの作品展が行われています。今年も幼稚園がすばらしい現代美術館になりました。先生たちが夜遅くまで作業をしてくださいましたが、いつも驚かされることは、これだけの作品の制作を導く力の凄さです。幼稚園の教師の枠を遥かに超える賜物が発揮されていると思い、今年も感動しています。

昨日、子どもたちの作品を見ながら、そこで気づかされたことがあります。年長組みの子たちは自分の似顔を描いているのですが、とても感心したのは、多くの子が、自分の顔をそっくり描いているということです。つまり、他者を描いているのではなく自分を正直に描いているということです。私だったら自分が嫌いな部分は隠すと思います。顔の形をスリムにしたり、鼻を高くしたりして、作った自分を描くと思います。しかし、子どもたちはありのままをそのまま表していました。子どもたちのその姿はとてもシンプルで、私に大きなことを教えてくれました。

それは、まず自分自身のことを描き出すことなしに、人と純粋に向かい合うことは難しいということです。

つまり、ヨセフのように、兄たちから嫌われ殺されるほどの羽目に遭いながらも、彼の関心は自分の内面に向いていたのでした。それは、自分自身の中に与えられている神さまからの賜物です。その賜物の故に兄たちに嫉妬され、命さえ危うくなりましたが、自分にそういう悪意をもつ人のことであたふたするのではなく、ひたすら自分自身の中のものを見つめて生きたのです。つまり、自分の中に与えられている神のものに心を向けるという誠実な歩みを続けました。ヨセフは、そうした誠実な生き方によって、自分自身が生きるようになり、そしてその生き方は隣人を生かし、自分を殺そうとしていた兄たちをも生かすことになります。それは、飢饉を乗り越えさせただけでなく、兄たちの渇いた心に、神さまの愛の道を開いたのです。

私たちにも、神さまからの賜物が与えられています。もしかしたら、色眼鏡の背後に隠れてしまっているのかもしれません。今週は、その賜物を探し出して、それに向かって歩いてみましょう。そして、過去のことでくよくよしている人に、「いいよ」、「大丈夫」と言える、先を歩く、フロントランナーの道作りをしてみたいのです。

 

希望の源でおられる神が、信仰から来るあらゆる喜びと平和とをもってあなたがたを満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。