(栄光の)山を下りる
ルカによる福音書9章28~43節a
(栄光の)山を下りる
この冬は一度も山に行くことができず、山が恋しくなりました。冬山は、木々に葉がないために、周りの景色がよく見えるので、他の季節とは異なる魅力を味わうことができます。冬が過ぎてしまわないうちに登りたいと思います。
イエスさまも山がお好きなようです。お一人で、山で祈っておられる姿、特に大切なことを前にしたときに山に登って祈っておられる姿が、聖書には記されています。
今日もイエスさまは弟子たちを連れて山に登られました。イエスさまが登られた山はどんな山でしょうか。高さはどれくらいで、険しい山なのか、どんな景色が広がっているのかなど知りたくなります。
今日同行している弟子はペトロとヨハネとヤコブの三人でした。彼らは、イエスさまの十字架の死の前日も、オリーブの山でイエスさまと一緒でした。
しかし、今日の山でも、オリーブの山でも、弟子たちは、イエスさまが必死に祈っておられる時、眠っていました。イエスさまが切実な思いの中で祈っているのに、弟子たちは眠っている・・・
山に、誰と一緒に行くか、それはとても大切なことです。行動がばらばらだったら、それこそ山登りどころではありません。
私だったら、自分が祈っているときに眠ってしまう弟子を、次の山登りには一緒に行きたくないと思うと思います。しかしイエスさまは、この次も、とても大切な祈りの場所にこの三人を同行なさいます。たくさんの弱さを抱えている者であっても、イエスさまにとっては、ご自分の道に大切な同伴者だということでしょう。
しかし、弱さのゆえに人が睡魔に襲われているときにも、神の国はどんどん進みます。祈っておられたイエスさまの顔の様子が変わり、着ておられる服が真っ白に輝き、モーセとエリヤが現れてイエスさまと語り合い始めました。それは、イエスさまがこれからエルサレムで遂げようとしておられる最期について、つまり、イエスさまのご受難と十字架の死についての語り合いでした。
半分眠っている弟子たちの目に、真っ白に輝いているイエスさまと、その傍に立っているモーセとエリヤが見えました。そして、モーセとエリヤが離れようとしたときに、ペトロが口を挟みます。「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために」(33節)。
イスラエルの民がエジプトを出て荒れ野での四十年間の生活をしていたときの話です。
モーセがシナイ山に上り四十日四十夜の間神さまから十戒を授かっていたとき、山の下にいた人たちは鋳造を造って拝んでいました。モーセが山に登ったきり、長い間下りて来ないので、死んでしまったと思ったのでしょう。それで人々は不安になりました。モーセがいない間民をまとめていたアロンも人々の意見に負けて、拝むための金の子牛を造らせました。
モーセがいないことで、どうして人々は他の偶像を造り始めたのでしょうか。つまり、モーセを通して語りかけていた神は、モーセがいなくなってしまったらもう語りかけることができない神になってしまったということでしょうか。確かにモーセは、神から聞いた言葉を彼らに伝える役割を担っていました。しかし、モーセが山から降りて来ないとき、他の像を造って拝み始めたということは、実は、彼らは、モーセを神のように拝んでいたということかもしれません。
私たちにも似たような思いがありませんか。つまり、見えない神を、見える人の中に閉じ込めてしまう危険性のことです。カリスマ的な人の中に、または神聖と思われる場所の中に、神を閉じ込めようとするのです。神を所有しようとする人の熱心さがそうしてしまうということです。
ペトロは、そういう人でした。神的な存在を小屋に閉じ込めて、自分の管理下に神を置こうとする。そのときに、人は教会を個人的なものにし、教会の営みに自分の個人的な思いを貫こうとします。そのことは、熱く燃えているときにこそ起こりやすいのです。ですから、熱心であることは、それが良いことであっても気をつけなければなりません。熱心であればあるほど、所有欲への誘惑が顔を出すのです。
神さまは、閉じ込められるような方ではありません。すべての人のところへ飛んでいかれます。ご自分が創造なさった被造物と一緒におられる方であって、特別なものだけを好まれる方ではないのです。私たちはそういう神を畏れ敬うのです。神さまは、私を上から、下から、横から、後ろから支えてくださり、私の暗闇の深いところに共におられ、私の必要をすべて知っていてくださる方です。私の行くべき道を私より先に歩いて整えてくださるお方ですから、一つの場所に閉じ込められたりはできないのです。
イエスさまは、山の上で、顔から光を放ち、着物が真っ白になって、モーセとエリヤと語り合っておられます。それは、ペトロが受け止めたような、神の栄光を司るための語り合いではありません。そうではなく、人々に仕えるために、多くの弱さを抱えている人の救いのために苦しみを受け、十字架の死を成し遂げるための語り合いでした。
しかし、ペトロの目には、権力という栄光に満ちた景色に見えたのです。だから、イエスのために、モーセのために、エリヤのために仮小屋を建てる提案が出て来たわけです。
この提案をしているペトロは、イエスさまから「教会の岩」と呼ばれ、教会の基礎としての権威を与えられた人です。イエスさまから、あなたがたは私のことを何と言うのかと問われたときに、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と、まっすぐに答え、天の国の鍵を授けられたのでした。
しかし、その直後に彼は、十字架の死と復活を予告なさるイエスさまをわきに連れて行き、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」といさめたために、イエスさまからサタンと呼ばれ、叱られました。
教会の基礎としての権威が与えられたそのすぐ後に、ペトロはイエスさまの受難を受け入れることを拒否しました。これは、私たちの肉的な欲望に満ちた思い上がりの姿です。キリストを頭として立てられた教会が、キリストの受難を前にして躓いたということです。つまり、教会は、私たちは、苦しみを受ける主を欲しない。主の十字架の苦しみを抜きにした、栄光のキリストを頭として立ちたいのです。そのようにして、私たちは教会の中に自分の都合にあったキリストを閉じ込めていないでしょうか。
仮小屋を建てたいという人間の欲望は退かれ、弟子たちは山を下りなければなりませんでした。山を下りる彼らの傍には、もうモーセもエリヤもいません。一緒にいてくださるのはイエスさまだけです。そして、山を下りた彼らを迎えたのは、大勢の群衆でした。その群衆の中には、悪霊に取りつかれた苦しむ息子のことで悲しむ親がいます。さらには、そういう親子を見ながらも何もできない、無力な弟子たちがいました。教会という場所、キリスト者の群れであるところはこういうところなのです。つまり、悲しみや苦しみを抱えている人々の生活の現実があり、弱さと限界を生きる弟子たちの現実があるところです。
どんなに長い信仰生活をおくっていても、私の弱さはそのままで、悲しみや苦しみを避けることはできません。これが、人が生きる現実であり、その現実から逃げて、どこか美しい世界をもとめても、そんなものはどこにもないのです。教会も同じです。教会をそういう美しい場にしてしまおうとするときに、教会は、人間の欲望によって山の上に建てられた仮小屋になってしまします。
そこで大切なことは、そういうドロドロとした現実のただ中に、イエスさまが一緒におられるということです。イエスさまが私の弱さや悲しみや苦しみを知っていてくださり、その現実のただ中に一緒にいてくださる。ですから、そこを「神の国」と言うのです。
今週の水曜日から四旬節が始まります。教会の暦の中におかれている四旬節がどんなに恵み深いときかわかりません。私たちが心してイエスさまの十字架の苦しみに与るときに始めて復活の喜びにも与ります。十字架なしの復活はないからです。私たちが迎える四十日間の四旬節の日々が、一緒におられるイエスさまの福音を生き、それを人々に証しする、大切な日々でありますように祈ります。
希望の神が信仰からくるあらゆる喜びと平和とを持ってあなたがたを満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。