弾みのある道

Home » 弾みのある道
20220312_051237353_iOS

弾みのある道

ルカによる福音書4章1~13節

2021年のネット詐欺による被害事件は、何と5万件を超えるほど起きたそうです。若者はネットに強そうですが若者も騙されやすく、勧誘してくるネット情報の本物と偽物の違いは、専門家でないと区別できないほどプロの手口が巧妙だそうです。ですから、気をつける方法は、必要のないサイトは開かない、それがいちばんの対策であるということでした。

本物と偽物の区別がつかないことは、ネット詐欺のみならず他にもたくさんあると思いますが、それに騙されるかどうかは、私たち一人一人の対応の仕方にかかっているということです。新しい時代に新しい道具を操作して生きることの難しさを感じてしまいます。

本日の福音書にも似たような状況があります。

洗礼を受けて聖霊に満ちてヨルダン川から帰られたイエスさまは、聖霊によって荒れ野に導かれます。荒れ野で、四十日間、何も食べず、祈っておられました。しかし、その四十日間、ずっと、イエスさまは悪魔から試みを受けられたと、聖書は記しています。どんな試みを受けられたのか、それについては何も書かれていませんが、悪魔がずっと傍にいたということです。断食の祈りの四十日が終わり、イエスさまが空腹を覚えられた瞬間、悪魔が堂々と提案をしてきました。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(3節)と。

神の子なら」という言葉を用いています。やり手の、プロの手口です。

イエスさまのことを「神の子」だと、どうして悪魔は知っていて、どこで覚えたのでしょうか。この言葉は、イエスさまが洗礼を受けられた際に、天からの声、つまり神さまから言われた言葉でした。イエスさまが洗礼を受けて、祈っておられると、天が開けて、聖霊が鳩のような姿でイエスさまの上に降って来たました。そのとき、「これは私の愛する子、私の心に適う者」と言われたのです(ルカ3:21-22)。

つまり、天からの声が聞こえたその場には悪魔もいたのです。それだけ、悪魔は神に近い存在のようであって、しかし、神の働きを邪魔するものです。

神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」という悪魔の提案。

私ならこういう提案にすぐのったことでしょう。しかし、イエスさまは、はっきりと何が本当に大切かを識別され、悪魔の提案を、御言葉をもって退けました。つまり、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」と。申命記の言葉です (申8:3)。

先週は聖書通読の質問の時間を持つことができませんでしたが、今週からちょうど二冊目の朗読手帳が使われるところまで読み進めることができました。み言葉を読み続けていて、内なる力がついてくることを感じませんか。再来週の辺りから、旧約聖書はレビ記に入るので、少しばかりつまらないと感じられるかもしれません。しかし、レビ記はレビ記で面白い面がたくさんあります。読み続けているうちに、イエスさまに倣って、何らかの誘惑の手が来たら、御言葉をもって退けられるようになったらいいですね。

誘惑者に対してみ言葉をもって向かい合うということは、その人の謙虚さを表していると言えます。自分の知識や知恵をもって対決しようとするのではなく、神さまの言葉をもって向かい合う。四十日間も断食をしながらお祈りをなさったのですから、イエスさまの内に養われた力は大変なものだったと思いますが、自分の力を過信なさいません。イエスさまは、自分ではなく神さまご自身が悪魔と闘ってくださるようになさいました。どこまでも神さまの言葉に自分を委ねて御心に従おうとしておられます。

一回目の誘惑に失敗した悪魔は、次は、イエスさまを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、「この国々の一切の権力と栄華とを与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だからもし私を拝むなら、全部あなたのものになる」という提案をしてきました。

ここでの悪魔の言葉、つまり、「国々の一切の権力と栄華は私に任されている」と言うのは、その通りだと思います。この世の権力や栄は、富(マンモン)との関連から来るものです。イエスさまは、「神と富と両方に仕えることはできない」とおっしゃられました。「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(ルカ16:13)とおっしゃって、富が神と等しいほどの力をもっていること、それゆえ神に従おうとする人は気をつけなければならないことを、はっきりと教えられました。

次に悪魔は、イエスをエルサレムの神殿の端に立たせて、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたを守らせる』、『彼らはあなたを両手で支え あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるからだ」と言いました。先ほど私たちが交読をした詩編91編の言葉をもって誘惑をしてきたのです。悪魔も聖書の知識に通じています。

この誘惑を、イエスさまは「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」と、ここでもみ言葉をもって退けられました。

こうして、聖書は、「悪魔は、あらゆる試みを尽くして、時が来るまでイエスを離れた」と記しています。

イエスさまが荒れ野で、四十日間断食をなさりながらこのような誘惑に耐えておられたということは、イエスさまにつながる私たちの一生涯において、この手の誘惑が尽きないということを意味します。

それは、誘惑を受ける場合もありましょう。しかし、自分が誘惑する者となる場合も多くあるのではないでしょうか。つまり、私の内におられるイエスさまを、一日に何度も試みるときがあります。イエスさまの荒れ野での四十日間の祈りの間、イエスさまの傍にいて絶えずイエスさまを試みていた存在。そして、イエスさまのことを「神の子」だと知っているので、仕事の悩みや人間関係での悩み、健康の面での悩み、自分で解決できることまで解決していただこうと、ねだるような信じ方をしている自分を、私はみるのです。

私たちは、事柄の良し悪しを、道徳や倫理に基づいて区別をし、なるべく人に迷惑をかけないことを常識にして生きています。しかし、神さまとともに歩む道には、道徳や倫理的側面とは異なる、霊的な、内面の深いところからの交わりが求められます。つまり、今、自分が、神さまに対してどう立っているのか。常に問われるわけです。

その問いをもって自分の内側を覗いてみると、イエスさまに誘惑のカードを出して立っているのは、この私なのです。荒れ野という私の人生の中におられて祈っておられるイエスさまを、私が行きたい方向へ連れて行こうとしている。つまり、富があり、権力や栄華があるところへイエスさまを強いている自分がいるのです。そしてそれが思うようにならないと、神さまの存在を疑ったり、虚しさに襲われたりして苦しむわけです。一生涯のうちにそのことを何度も繰り返ししている、その私が、今日もこうして神さまの前に招かれ、聖なる食卓の一員とされ、さらには神さまのために奉仕する者として用いられているということ。これほど大きな恵みがあるのでしょうか。

作家の佐野洋子さんの「ふつうがえらい」という本の中に、このようなことが紹介されていました。

テルちゃんとあこさんは絵描きになるためにミラノで暮らし始めました。ところが、二人の性格は真反対。あこさんは寝巻きにさえアイロンをかけてから着るような、几帳面な人です。しかし、テルちゃんは、脱ぎっぱなし、散らかしっぱなし。男性との付き合いもだらしない。その後始末をすべてあこさんがやらなければなりません。その様子を見た佐野さんが、あこさんに、どうして別に住まないの?と聞いたら、あこさんは、「私もそうしたいわよ、けどね、あの人と居ないと生きているばかばかしい弾みがなくなって、寂しいのよ」という答えが返ってきたそうです。「生きているばかばかしい弾み」、なんという表現でしょう!

きっとイエスさまもあこさんのように、私たちのことをそう思っておられるのではないでしょうか。あの子がいないとだめだと。私のように私欲をはって傍にいる者もいれば、本物と偽物の区別が出来なくて、騙されて、被害を被っている者もいて、その後始末をイエスさまがすべてなさるけれども、あなたと一緒にいる道は、弾みがあって良し!あなたと一緒にいて嬉しいとおっしゃって、今日も私たちを微笑んでおられるのではないでしょうか。

いつも人と神さまに後始末をしていただいている私も、今年の四旬節は、静かに誰かの後始末ができるように、内なる力をつけるときとして過ごしたいと思います。

 

希望の源でおられる神が、信仰から来るあらゆる喜びと平和とをもってあなたがたを満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。