今日も明日も、その次の日も

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今日も明日も、その次の日も

(ルカによる福音書13章31~35節)

本日の福音書でイエスさまは、エルサレムのことを嘆いておられます。 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか」(34節)と。

「エルサレム」は平和の町という意味を持った言葉です。ですから、本来は、ばらばらな状態になっている人々を神の平和の中に集める役割を果たす場であり、さらには、世界の果てへ向かって神の平和を分かち合ってゆく所を意味します。しかし、それどころか、神さまから遣わされた人々や預言者たちを石で打ち殺すような、悲しい場所になってしまっていたのです。エルサレムの政治家たち、そして何よりも神の平和の家であるはずの神殿が、この世の富と権力を重んじ、富と権力の奴隷になってしまっていたのでした。

今日イエスさまは、そのエルサレムのただ中のもっと奥へ入って行こうとしておられます。富と権力の奴隷のシンボルになっている王ヘロデがご自分を殺そうとしていることをファリサイ派の人々から聞きます。しかしイエスさまは、「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえない」と言われて、腐敗した都に留まることを躊躇なさいません。

このイエスさまのお姿を見ていると、ただの勇敢な人を見ているというより、神さまの愛の本質に出会わされます。

創世記3章には、罪を犯してエデンの園から追放される人間の姿が描かれています。その人間のために、神さまは丈夫な動物の皮で衣を造って着せ、エデンの園から新しい地へ出発させ、しかも、ご自分もその罪深い人間と一緒に新しい地へ出ていかれます。このような神さまの暖かい愛を、エルサレムの最も腐敗したただ中へ入って行かれるイエスさまに見るのです。

つまり、人間の犯した過ち、人の弱さを襲う悪の力を、ご自分の善から切り離そうとされない、神さまの偉大な愛の眼差しがここにあります。

エルサレム、そこは今、富と権力の奴隷になって、神の平和を壊し、人々を惑わし、遣わされてきた神の人を次から次へと石で打ち殺すような都です。それこそ天罰を受けるような悪が、権力者とその民衆によって行われている都です。しかし、イエスさまは、そういう都だからと言って、その人々とその場を、神の愛から切り離そうとはなさいません。まったくその逆です。そういう人々とこの都を愛の中に包み込もうとされているのです。

愛の神は、たとえその人が殺人を犯したとしても、殺されてしまった人への悲しみとともに、犯罪人を抱きしめ、その人への裁きを一緒に負いながら歩いてくださるのです。悪は、弱い人間が存在する限りその弱さを利用して存在し続けます。

  その悪に心のすべてを奪われてしまう人を、そうならないように、どんなに闇が深くても、生きる意味とその喜びと思い出すようにと、神さまは、その愛を、尊い命を私たちに注がれるのです。人を丸ごと包み込んで、ご自分の愛の中で保ってくださるのです。

ヨハネによる福音書の8章には、姦通の現場で捕らえられた女性が、ファリサイ派や律法学者たちによって、イエスさまの前に連れてこられる記事があります。死罪を犯した女性を前にして、今でも石を投げようとしている人々に向かってイエスさまはこうおっしゃいます。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と。

すると、「年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってゆき、イエス独りと、真ん中にいた女が残った」とそう記されています。

つまり、罪を犯したことのない人が、その中には誰一人いなかった。私たちは、罪を犯さないで生きることはできないものであるということです。そして、さらには、そこにイエスが介入して来られるとき、つまり、イエスさまが裁く者と裁かれる者の間に入ってきてくださるときに、人々の間には、裁く人も裁かれる人もいなくなりました。

今月の教会ニュースに「ブラザーサン・シスタームーン」という映画をご紹介させていただきました。聖フランシスコのことを描いた映画です。裕福で力のある人たちが教会の中心メンバーになっている。フランシスコは、そこを出て、貧しい人々のただ中へ入っていきます。貧しい人たちと一緒に、廃墟となっていたサン・ダミアノ教会に石を運んで教会を建て、共に暮らします。イエスさまが、人の弱さを担って一緒におられることを、フランシスコはそのまま現わそうとしました。フランシスコは本当の、本来のエルサレムを作ったのでした。

神の平和を司るための都、エルサレム。その場所は、私たち一人一人の中にもあります。しかし、そこを私たちは、日々の歩みの中で、ときには悪の声に唆されて、その声に、弱さを操られながら、自分のもっとも大切なものを譲ってしまってはいませんか。それによって、自分にとって都合の悪い人を自分から切り離し、この世の富と権力者の視点から人々を見分けてしまいます。さらには、自分自身がそうみられていることに疲れ、ストレスにさらされるような日々を送る場合もあります。

そういう毎日を繰り返してしまう私たちですが、イエスさまは、それでも、諦めず、今日も明日も、その次の日も、その私をご自分と一つにして、真の平和を生きる者にするために、私の最も闇の深いところに入って来てくださるのです。私の中の闇によって殺されるかもしれないのに、イエスさまは躊躇することなく私の中に入ってきて私と一つになってくださる。私たちを神さまの愛の中に包み込んで、丸ごと受け止めてくださるのです。このイエスさまのゆえに私たちは真の善であられる神さまと一つにされるのです。

 

希望の源でおられる神が、あらゆる喜びと平和とをもってあなたがたを満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。