マリアの選択

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ヨハネに寄る福音書12章1~8節

マリアの選択

今日の福音書の初めに、「過越際の六日前に、イエスはベタニアに行かれた」と、時を表すことが記されていますが、これは、イエスさまの十字架刑まで、後六日残っているということを表わしていると思います。

ベタニアには、イエスさまがとても大切にしているマルタとマリアとラザロの家族が住んでいました。この家族は、イエスさまがエルサレムに行かれた際にはいつもイエスさまご一行を迎えて、もてなし、親しい交わりをもっていました。

この日もイエスさまご一行を迎えて夕食が用意され、相変わらずマルタは給仕に専念しています。そのとき、マリアが非常に高い香油を、自分の髪の毛でイエスさまの足に塗り始めます。イエスさまは、このマリアの行いを、「私の葬儀の日のため」だとおっしゃっております。つまり、マリアはイエスさまの葬儀のために、高い香油を準備しておいたのでした。どうしてマリアはイエスさまの死期が分かったのでしょうか。イエスさまから聞いていたのでしょうか。そういう可能性もあります。

しかし、マリアはイエスさまの足元に留まる人として知られています。
マルコによる福音書10章38節からの有名な箇所を私たちは良く知っています。マルタはイエスさまご一行をもてなすために忙しく動いていましたが、マリアはイエスさまの足元に留まっていました。手伝いもしないでイエスさまの足元に座っているマリアのことに腹が立ったマルタはイエスさまに不平を言い、イエスさまから、「マリアは良い方を選んだ」と答えられ、マルタはそれ以上不満を言えなくなったという記事です。

イエスさまの足元に座ることを選んだマリア。今日も、マリアはイエスさまの足に香油を塗っています。しかも自分の髪の毛でもってイエスさまの足を拭いでいます。イエスさまの足元に座る、またはイエスさまの足に、頭ではなく足に香油を塗るという行為。いったいこれは何を表しているのでしょうか。

旧約聖書のルツ記では、モアブから帰ってくるナオミと一緒にベツレヘムに帰ってきたルツが、ナオミの勧めに従って、ボアズという裕福な人の畑に行って、落ち穂拾いをします。そしてその夜、ルツは、寝ているボアズの足元の方に入って身を寄せます。このことは、ルツのボアズへのプロポーズとも解釈できるくらい、とても親密な関係に入って行くことを意味します。そういうことがあって、ボアズとルツは結婚をし、ダビデの祖父母になり、そしてイエスさまの父となるヨセフの先祖になって、イエス・キリストの系図を成すようになります。

ルツがボアズの足元に身を寄せ、マリアはイエスさまの足元に座り続け、そして今日イエスさまの足に香油を塗るという行い。つまり、マリアとイエスさまとの間には、それだけ深い信頼によってつながっていることの表しではないかと思います。そういう信頼の中で、マリアはイエスさまの死期を察するようになったと。しかしそれは、マリアにとってとても辛いことだったと思います。人が知らないことを先に知り、それにふさわしい働きへ遣わされるということは、とても孤独な道です。霊的な孤独です。マリアは寂しい道にいます。しかしそれでも、その道に留まり続けられるのは、聖なる方を聖なる方として人々に指し示すという、自分が担うべき働きが尊いものであることが分かるからでしょう。マリアがイエスさまの足に香油を塗るという行為は、イエスさまを聖なる方として指し示す、マリアだけにできる働きです。

ご自分の葬儀のために用意された高い香油を、今日、マリアの髪の毛で拭われた足で、イエスさまは、これからエルサレム城へ入って行かれます。その道は、暗闇の道です。十字架刑を言い渡され、十字架の上での死を成し遂げられなければならない道、その道をイエスさまはこれから歩まれるのです。誰も、イエスさまの代わりにその道を歩くことはできません。マリアも、できることは歩まれるイエスさまの足を香油で拭うことまでなのです。聖なる方を聖なる方として指し示す、マリアに許された働きはそこまでです。

それでは、マリアがそれだけ聖なる働きをする場だから、その場は平和で、御恵みに溢れているようなお祝いの場だったのでしょうか。いいえ、そこは険しいところでした。つまり、批判者がいたのです。マリアが用いる香油に値段をつけて、それだけのお金になるものを無駄使いしていると指摘する者がいました。資本主義の中の合理主義です。お金を神のように信頼して生きる人々の視点からは、マリアの働きは無駄使いしているようにしか見えなかったのです。

このことは、私たちが良く経験していることです。日曜日を主日として守ることに、家庭でも社会からも批判を受けるときありませんか。日曜日に教会にくるために家族の顔を伺わなければならず、さらには、献金をすること、奉仕をすること、教会生活は何一つこの世の在り方と合致しません。

それでも私たちは、キリスト教の中に、つまりイエス・キリストの教えの中に良いものがあることが分かって、非合理的な道を選びました。その良いものを、私たちはどれだけ味わっているのでしょうか。特に、キリスト教の正典(キャノン)とされている聖書の言葉の味は、蜜よりも甘いと言われますが、その甘さを私たちは十分に味わっているのでしょうか。

詩編19編では、「主の律法は完全で、魂を生き返らせ 主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。・・・金にまさり、多くの純金にまさって望ましく 蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」(8~11)と述べます。

主の言葉が、蜂の巣の滴りよりも甘いというのです。どんな甘さでしょうか。主の律法を蜂の蜜の甘さにたとえて言える詩編記者の捉え方こそ、非合理的です。体の感覚をもって神さまの言葉を味わう。だから詩だと思いますが、私たちは、神さまのことや聖書について、難しく考えている面がありませんか。つまり、ユダ的な考え方をしてしまうのです。概念の世界で御言葉を解釈し、神さまを理解するためにも、体系的に捉えなければならず、ですから、イエスさまと一緒にいるのに、イエスさまが分からないのです。

私はいつも疑問になります。ユダにとってイエスさまはどういう存在だったのだろう? ずっと一緒に過ごしていてイエスさまとどれだけ話し合っていたのだろう。なぜユダに疑問を持つかと申しますと、イエスさまの神聖さ、イエスさまに秘められた神秘的な光に、弟子たちの中でもユダがいちばん敏感に反応していると思うからです。つまり、彼がイエスさまの反対側に立つことを選び取るという行為がそれを現わしています。光の反対側の闇に彼は関心を示し、それによって、イエスさまの十字架の道は確かなものになりました。つまり、死人の中からの復活の、神さまの偉大な御業が成し遂げられるわけです。

長いキリスト教の歴史の中で、ユダはとても悪い人のように位置づけられています。しかし私たちは、ユダをもっています。闇があるのです。光ではなく闇の方を選び取ろうとする、罪人の性質を持っています。罪人とは、自分ではどうすることもできない闇を持っているということです。その闇を照らされたいために、私たちはイエス・キリストを求めて、教会に関心を持ち、キリスト者になり、今ここにいます。イエス・キリストの他に、私を闇の力から救い出してくれるものはないことを知るから、今日もここにいるのです。そしてイエスさまは、その私をじっと眺めているのではなく、私の中に、私の闇の中におられます。

しかし、イエスさまを納めて一緒にいながら、私たちは、識別する力がないために、自分の懐に神さまの祝福がどれだけ入るか、イエスと一緒にいることの利益はいくらくらいなのだろう、または、イエスから離れたら罰が当たるのではないか、何か悪いことが起きたらあの時あのようなことを言ったからという概念の世界の基準で信仰の道を捉えているゆえに、体はイエスさまと一緒にいても心は闇の中をさ迷っている状態であると。

マリアは、イエスさまの足元に座り続けることを選び取り、イエスさまの死期を識別し、イエスさまの必要を満たす働きに遣わされています。ユダが立っている反対側、イエスさまの足元にいます。頭ではなく体で仕え、時に相応しい働きに遣わされている彼女は、頭が床につくほどひれ伏している低い姿勢です。そして彼女は知っています。イエスさまのこの足が、これから自分の汚い心の闇の道を歩いてくださることを。この足が、自分が犯した数え切れない過ちの険しい道を歩いてくださり、赦しを宣言してくださる聖なる足であることを知っています。

私たちもイエスさまが十字架の上で死なれる日を知らされています。そして、イエスさまが私の心の闇の道を歩いてくださることをも知っています。さらには、そのためにイエスさまが尊い命を献げてくださることをも、しっています。

来週から聖週に入ります。私たちは何を用意し、十字架の道を歩まれるイエスさまの後に従ってゆくために、どうしてゆくのでしょうか。私たち一人一人に委ねられた選択です。識別された選択ができますように祈ります。