主がお入り用なのです

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ルカによる福音書19章28~40節

主がお入り用なのです

今日私たちは「主のエルサレム入城主日」を守っていますが、従来この日は「枝の主日」として守られてきました。宗教改革五百年を記念して、約三十年ぶりに式文を再検討することになり、典礼の暦の数え方にも多少の変化がありました。もちろん、「枝の主日」がまったくなくなったわけではありません。福音書の中で枝が用いられる年には「枝の主日」として守りましょう。

それに、本日読まれた福音書は、四旬節と待降節には読まれるところです。なので、聞きなれているためにさらっと聞き流してしまいがちですが、この中には、私たちの想像を超えた緊張が漂っています。その理由の一つは、イエスさまの行列が、メシア預言に沿ったものだったからです。ゼカリアの預言にはこのように書かれています。「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って」(ゼカリア9:9)。

長い間、人々は、この預言の通りのメシアを待ち望んでいました。群衆はイエスさまがそのメシアであると信じて従っています。しかし、宗教者たちが求めるメシア像は、イエスさまのような人ではありませんでした。富と権力にまみれた当時の宗教界を、イエスさまははっきりと批判していたからです。洗礼者ヨハネも厳しく批判したために殺されました。本日の福音書の中でも、人々の賛美の声にファリサイ派のある人たちが、「弟子たちを叱ってください」とイエスさまに頼んでいるのは、そのためです。

そしてもう一つの理由は、この行列です。当時、特にガリラヤから反体制のデモが度々起きていました。ですから、イエスさまを先頭にする行列が、当時の政治体制に対して脅威を与えたと思います。もちろん、人々は、武器は持っていませんでしたが、大勢の人数が声高らかに賛美しながらエルサレムへ入っていくという様子は、ローマの支配者側にとって警戒の対象になったと思います。

このことは、私たちに対しても、とても大切なことを示唆しています。というのは、私たちも、個人の信仰においても、教会形成においても、当時の宗教者たちのように、自分にふさわしいメシア像を描いている面があると思うからです。教会も、私にとって心地よい場所であればそれで良くて、他の人のためにとか、イエスさまがどう思うかはあまり考えない面があるでしょう。

ですから、イエスさまのエルサレム入城は、そういう体勢に対する問題提示であり、私たちも緊張感をもってイエスさまを迎えなければならないと思うのです。

イエスさまのエルサレム入城に際して、具体的に登場するものがいます。それは、ロバを連れてくるように遣わされる二人の弟子と、ロバの持ち主と、子ロバです。もちろん、イエスさまの通られる道に上着を敷く人や賛美をする人たちもいます。しかし今日は、「主がお入り用なのです」という言葉を直接聞いているものを通して福音に預かりたいと思います。

主がお入り用なのです」。このとき用いられて「」とは、ヘブライ語では「ヤハウェ」という言葉です。イスラエルの人々は、「ヤハウェ」を「アドナイ」と読みます。それは、「主の名をみだりに唱えてはならない」という十戒の戒めを守るためでした。「ヤハウェ」の意味は、命の源という命の根源を示す言葉です。出エジプトでは、モーセに対して、「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出3:14)という言葉で自己掲示しておられます。

ヤハウェをギリシャ語ではキューウリオス、油注がれたものという意味で表し、ラテン語ではドミヌスと言います。日本語では「主」と訳されていますが、それが適切かどうかはわかりません。しかし、偉大で不可侵の神聖な名であるゆえに、ヤハウェと言う主の名をアドナイと読み替えて、その名の尊厳を現わしているイスラエルの人々と、日本の私たちの間ではギャップがあるかもしれません。

主の二人の弟子は、「主がお入り用なのです」という言葉を携えて、イエスさまが示す向こう村へ行きました。向こうの村の人が本当にロバを貸してくれるかどうか、不安もあったはずですが、二人の弟子は何も尋ねません。そして遣わされました。そして、子ロバの持ち主は、自分の財産であるロバをほどいている弟子たちに、「なぜ、子ロバをほどくのか」とは聞きましたが、「主がお入り用なのです」という言葉を聞いて、何の文句もなしにすぐ渡しています。さらには、子ロバも、「主がお入り用なのです」という言葉を聞いています。子ロバも何の抵抗もなしに二人の弟子についていきます。そして、生まれて初めての仕事としてイエスさまを自分の上に乗せるという、光栄な働きに用いられました。

二人の弟子も、ロバの持ち主も、子ロバも、「主がお入り用なのです」という言葉に従順です。きっと、「主」という言葉が彼らの心を動かしていることでしょう。

まさか、ロバが人間の言葉を聞くはずがないと思っておられる方がいらっしゃるでしょう。しかし、ロバも人間の言葉を聞きます。言葉だけではなく、その場の張りつめた緊張感をも察していたことでしょう。動物も植物も、この世の命あるものはすべて、人が聞いている言葉はもちろん、人が聞くべきなのに聞いていないものまで聞いています。

例えば、「愛している」と毎朝言われて育った花はきれいな花を咲かせますが、「嫌いだ」と言われて育った花は、花を咲かすどころか、成長も難しくなるという研究結果がありました。「愛している」と言われるご飯と、無関心で何にも言われないご飯を比べたら、「愛している」と言われたご飯が長持ちしたと言います。猫や犬は言うまでもありません。

動物も植物も、命あるものは言葉をもっていますし、聞いています。つまりそれは、「主」という命の源なる神さまを納めているということです。神さまに造られた被造物のすべてが、「主」の名を知っています。しかし人間は、言葉を言語という、合理的なものにしたために、それが縛りとなって、不自由になってしまいました。自然界と不和な関係を築き上げ、肉眼で見えない世界とは、断絶された関係になりました。それをどのようにして回復するのでしょうか。

私たちが話す言葉は、とても便利であり、とても合理的ですが、命の根源なる神の世界を混乱させるようなものでもあると思います。バベルの塔を立てる現場で起きたことが、今全世界で起きています。

もしも、人間の言語がなかったとしたら、人類はどのような道を辿ったことでしょう。もしかしたら、聖フランシスコのように、鳥の鳴き声を聞くことができ、花や風に揺れる木々の音を解釈し、犬や猫と普通に会話を交わすことができたのかもしれません。

ロバも「主がお入り用なのです」という言葉を聞きました。その言葉を聞いたときに、子ロバは、繋いであったものからほどかれました!繋がれていたものがほどかれる。それで子ロバは、イエスさまの前に連れて行かれ、自分だけにできる奉仕を始めました。それは、イエスさまを自分の背中に乗せて歩くことでした。それは、生まれて初めての仕事だった。お金になるようなことでもなく、持ち主に褒められるようなことでもなかったけれども、子ロバは、イエスさまが神さまから委ねられた働きができるように、とても大切な働きを担ったのでした。

また、古い時から人々が待望していた、大切なメシアへの希望が適えられることにもなりました。子ロバは「ヤハウェ」という名の神さまを現わしてくれました。

「ヤハウェ」という「主」なる神さまは、私たちに、子ロバのようにかかわってくださっています。つまり、私たちの必要を満たすために、黙々と命を注ぎ、ご自分を注ぎ、どんなときも仕えて、汚い私の足を、私の弱さを洗ってくださっています。私が、自分の欲望を満たすために人の批判をするときも、みんなのために与えられた教会を自分のもののようにして私有化しようと欲をはっているときにも、神さまは黙ってその私の声を聞いておられて、そっとその私に寄り添い、そして、イエスさま通して語りかけてくださる。「主があなたをお入り用なのです」と。

今日、その神さまの働きを全うされる方が、私たちのところに入って来られます。ほどかれて自由になった人々の奉仕をいただきながら、イエスさまが私たちのところに入って来られるのです。それは、私が、私たちの教会が、命の源なる神を受け入れるにふさわしい器とされたということ。さあ、心の扉を開いて、来られる方をお迎えて一緒に喜び踊りましょう。