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新しい旅へ

ヨハネによる福音書13章31~35節

コロナのために自由に旅行ができない状況が続いています。私はコロナの前までは、一年に二回ほど故郷に帰ったり、他の国を旅行したりしていました。故郷に帰っても、他の国に出かけても、やはり新しい出会いがあるということが旅行の楽しみです。ですから、また出かけたくなるのではないかと思います。

ある旅館で出会った旅人たちがこんな議論をしたという小話があります。

夕食をすまして、いろんな話でにぎわっているときに、ある人が、自分が住んでいる島の話を始めました。島のいちばんの魅力は、太陽が海から登って海に沈む光景だと。その人はその島から出たのが、今回が初めてでした。その話を聞いていた一人が反論します。何を言っているのですか。太陽は山から登り、山に沈むのですと。彼は山の麓に住んでいる人で、今回始めてその村から出てきた人でした。二人の声がどんどんエスカレートしていく様子を見た旅館の女将が間に入りしました。女将もその村から出たことのない人でした。彼女は主張しました。あなたがたは間違っている。太陽は家の屋根の上から登って屋根の上に沈んでいきますと。

この小話は、島から出たことのない人、山から出たことのない人、自分の家から出たことのない人の視野と考え方がどれだけ狭いかということを良く表しています。

そしてこの話は、今の私たちの物事の見方に警笛を発しています。つまり、人が自分の慣れ親しんだ環境から外に出ないかぎり、他者の内面を理解することはできないということを伝えています。科学的研究がどんなに進んでも、世界がグローバル化されてどんなに自由に行き来できるようになったとしても、外に歩み出さないかぎり、人の内側は、自分の殻を破ることができないまま、依然として狭い世界観の中に閉じ込められるのではないかと思うのです。

イエスさまは、十字架の死の前日、弟子たちに新しい戒めを与えられました。「互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになるであろう」(31節)。

キリスト教の本質は、そしてキリスト者として生きる道は、このイエスさまの新しい戒めを生きることです。イエスさまが愛したように愛する、その他のものはすべて付随的なものと思います。私が愛したいように愛するのではなく、イエスさまが愛されたように愛するということ。ですから、そのためには、自分の殻を破ってイエスさまの衣に着替える必要があります。

イエスさまと一緒にいて、イエスさまから深い愛を受けていた弟子たちもこのことに気づきませんでした。本当の破れを経験していない弟子たちには、人を愛するために命をも差し出すということの意味が分かりませんでした。弟子たちがその愛に気づくようになるのは、内面の破れを経験したときです。裏切り裏切られる経験の中で、恐れや不安の中で、弟子たちは自分自身の力では何一つ成し遂げることができないことを知ったのです。内面の破れを経験して、弟子たちは、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と勧められたイエスさまのお言葉の意味がわかったのです。

人は、自分の努力によっては神さまの所へいたることはできません。他者との関係がなければ、人は自分の限界や貧しさに気づかないのです。本当は自分にとって最も手ごわい相手こそ、自分の殻を破るための一番良き隣人と言えます。

今日発行された教会ニュースにもご紹介しましたが、最近「台所のマリアさま」という児童文学書を読みました。ウクライナ人の家政婦が登場する物語で、タイムリーということでもあって、友人から勧められました。この家政婦の名前はマルタ。故郷を追われ、言葉もあまり通じない異国で、友達もなく、家政婦をしながら生きる人です。マルタは家族と一緒に暮らしていたウクライナの家の話を、この家の小学生の子ども、グレゴリーとその妹ジャネットによくしていました。ウクライナの家には部屋が一つしかないこと、家族皆が一つの部屋で過ごすこと、そこは寝室にもなり台所にもなるということ、そしてそこには聖母子のイコンが置かれていて、イコンの前には蝋燭が常に灯されていて、家族はいつもイコンの前に集まっていて、そのときがとても幸せだったと。

マルタは、今働いているこの家の台所は「空っぽ」だと言います。食べ物やいろんなもので満たされているけれども、肝心なものがないという意味での「空っぽ」という言葉でした。そういう寂しさの中で、時々故郷のウクライナのことを懐かしむマルタを見て、グレゴリーは自分たちのお金で聖母子のイコンを買って、マルタにプレゼントしようとします。子どもたちはマルタが大好きだったからです。しかし、本物のイコンの値段がとんでもなく高く、自分たちのお小遣いでは買えないことを知り、結局、グレゴリーは自分でイコンを作ることにします。

グレゴリーは、とても内向的な少年で、家族にも心を開かず、飼い猫以外は部屋に誰も入れません。しかし、イコンを作るためには、どうしても人々の助けが必要でした。さらには、イコンの背景の材料として、自分がとても大切にしていた船の絵を切り取ることも決心します。こうしてグレゴリーは、大好きなマルタを喜ばせるために、自分の限界を次々に越えたのでした。いよいよイコンが完成し、お父さんとお母さんが部屋に呼ばれます。グレゴリーの部屋に入ったお母さんが泣きます。イコンよりも、入ることができなかったグレゴリーの部屋が解放されたことに感動しているのです。さらには、マルタがどれほど喜んだことか、それはどうぞ皆さんこの本を読んでみてください。

自分の部屋に家族を入れないグレゴリー、外へ出てお店に入ってもお店の人に口を聞くこともしなかったグレゴリーですが、故郷を追われて一人寂しく生きるマルタの孤独を癒そうと取り組んだイコン製作を通して、彼自身の孤独が癒されました。人の孤独を癒そうとしたときに自分の孤独が癒されたのです。そのグレゴリーの姿に触れながら、ヘンリー・ナウエンの「傷ついた癒し人」という本を思い出しました。傷ついた者こそ、人の傷を癒すことができるのです。そして、人の傷を癒すことで自分の傷が癒されてゆく。これがイエスの愛の姿です。

私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というイエスさまの新しい戒め。イエスさまは、人の、弟子たちの、私たちのどうすることもできない暗闇の中に、私たちの孤独の中に入ってくることを通してご自分の光を輝かせようとなさいます。あなたの闇こそ私の光を輝かすために必要であると宣言なさるほどのイエスさまの愛が、イエスさまが勧めておられる新しい戒めに宿っていると私は思います。しかし、自分が持っている能力や知識によって神に近づこうとがんばるために、私たちは、私の闇の戸口に立っておられるイエスさまには気づきません。

初めにお話しました旅館の人たち、彼らは、次の日、行ったことのない地へ出かけます。島から来た人は、山の方に行って夜を過ごし、太陽が山から登って山に沈むということが本当であることを知りました。また、山の麓から来た人は島の方に行って一晩過ごす中で、そこでは、太陽が海から登って海へ沈むという話が本当だということが分かりました。

自分の知識や見解が最もで、自分のやり方の方が正しいと思っているかぎり、イエスさまの愛に達しようとする私たちの努力は空振りに終わります。そうではなく、自分から出てゆく、人の弱さとつながる、そういう関係性の中でのみ私たちの孤独や渇きは癒されます。神の救いの道がうんと近いということに気づかされます。

キリスト者としてイエスさまの愛に生きるために、自分から出ていくという心の旅を始めてみませんか。私の知らない他の人の景色への旅を始めるのです。