喜びの働き手
ルカによる福音書10章1~11、16~20節
喜びの働き手
いつの間にかイエスさまの弟子が72名に増えています。本日の福音の記事は、ルカ福音書だけが記しているもので、先週の続きから考えるとき、著者ルカの弟子像が分かるような気がします。ルカは小さき者をとても大切にした視点から福音書を書いています。多くの弱さを抱えている小さな者が主の弟子として招かれ、遣わされているのです。
きっと、先週、イエスさまに対してああでもないこうでもないと言ってくよくよしていた人々が、今日遣わされている72名の弟子の中に加えられていることでしょう。弟子たちは二人組で町や村に遣わされていますが、福音書の終わりの方では、帰ってきた弟子たちが、喜びを持ってイエスさまに報告している様子が描かれています。自分が、はたして福音を携え、それを分かち合うことができるだろうかと、不安でいっぱいだったのかもしれません。しかし、大切なことは、福音宣教は自分の力でするのではなく、主の名によって行うという、そのことを大切に働いたときに、弟子たちは大きな実りをもって帰ってきました。弟子たちの心は、溢れるほどの喜びに満ちています。自ら蒔いたものを収穫する喜び、それが初めての体験ですからなおさら、どれほど嬉しかったことでしょう。
その弟子たちに向かってイエスさまはこうおっしゃいました。
「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と。このイエスさまのお言葉には、弟子として保つべき姿勢が表わされています。つまり、「やるべきことをやっただけ、という姿勢で働きなさい」ということです。初めは「主の名によって」働いた結果として謙虚に受け止めても、段々と回数が重なるにつれて驕り高ぶるようになって、自分の中の特別な力があってできたと思い込むようになることをイエスさまは警告しておられます。
今は天に召された牧師先生ですが、生前こんな話をなさっておられました。「福音宣教というものは、池の中の鯉に餌をあげるようなものだ」と。餌がどの鯉の口に入るか分からないけれども、ただ与えるように、福音宣教も同じであるというのでした。鯉はその餌を誰からもらっているかわからず、あげる方も、決まったものにあげることはできない。しかし、鯉はお腹がいっぱいになり、あげた人はあげたことで満足します。
「池の中の鯉に餌をあげるようなものだ」。この言葉とイエスさまがおっしゃった、「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」は似ています。
自分の都合や利益を考えてするかしないかではなく、弟子として招かれた者は、折が良くても悪くても果たすべきことを果たす。好きな人にも苦手な人にも分け隔てず分かち合う。それが弟子の働きだと。そして、純粋な喜びは、分け隔てなく分かち合うことの中に生じるのです。
今日、イエスさまはそのような働き手をもっと探し求めておられます。
今の季節、農家の人たちにとっても喜びのときです。収穫の時期だからです。自分が植えたものを刈り取る喜びは、畑作業の最高の喜びです。
私は時々、忙しくてルターハウスの畑を耕して何かを植えることに躊躇します。収穫の時期になったら安く買えるし、植えなくてもいいのでは・・・と考えるのです。しかし、そうなると、収穫の喜びは味わえないわけですから、やはり植えたくなりますし、管理不足に加え、虫たちにも食べられてしまうので、それほど立派なものが取れないのかもしれませんが、今年もいろいろと植えてよかったと思います。
今日イエスは、ご自分の畑のことで嘆いておられます。それは、「収穫は多いが、働き手が少ない」という嘆きです。ルターハウスの畑とは違って、きっとイエスさまの畑には立派なものが実っているのでしょう。どんなものが実っているのでしょうか。みんなで車に便乗して取りに行きたいくらです。
「収穫は多いが、働き手が少ない」。当時も、今も、人材不足の悩みが共通テーマのようです。
イエスさまがおっしゃる多くの収穫、不足している働き手、これらをイエスさまのお言葉の中の弟子像からもう一度考え直してみたいと思います。イエスさまは、遣わされて、喜びを持って帰ってきた弟子たちに、「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と、念を押しておられました。
ではいったい、イエスさまがおっしゃる「収穫」とは何なのでしょうか。
以前、ある会で、ちょうど今日の福音書の箇所からメッセージを担当したことがあります。エキュメニカルな集まりで、司祭や牧師が多かったので少し緊張していました。私は祈りの中で神さまに聞いたのです。「収穫が多いとおっしゃいますが、この収穫とは何ですか」と。すると、しばらくして私の胸に響きく言葉がありました。それは、「喜び」という言葉でした。「喜びを刈り取る働き手が足りない」のだと。
私ははっとさせられました。なぜなら、私は、収穫とは「人間のこと」だと思っていたからです。それで、自分が驕り高ぶっていたことに気づき、恥ずかしくなりました。つまり、クリスチャンではない人をクリスチャンにすることが、神さまの働き手の仕事であり、ノンクリスチャンの人が収穫物と思っていたのです。
驕り高ぶる姿。それが私の中にありました。主の弟子となった私に委ねられた働きが「主の名によるもの」であることを、すぐ忘れるのです。自分の感覚を優先するからです。やりたい時は力尽きるまでやってへとへとになりますし、やりたくないときはだらだらしていて、ああでもないこうでもないと、自分の都合で動こうとする。そのような働き方をしていると、結局数字がどれだけ延びるかという、成果主義に走りたくなるのです。高い点数を取れば、人々から賞賛を得られるということを知っているからです。
主の弟子の中のトマスがそういう人でした。今日は、聖トマスの日でもありますので、トマスのことに少し触れられたらと思います。彼が、自分の手を主の脇腹に入れて見なければ、主が復活されたことを決して信じないと言ったことは、私たちもよく知っています。
本日聖トマスの日に選ばれているヨハネ14章ではこのように記されています。
「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道がわかるでしょう。」イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」(1~6)。
イエスさまが、ご自分が行かれる道を弟子たちは既に知っているとおっしゃっておられることに対して、トマスは、知りません、どうして知ることができましょうかと応えています。このトマスの応答は、イエスさまを前にしてイエスさまを探している人の鈍い姿です。疑うからです。イエスさまのおっしゃることが自分の感覚、理性、それまでの経験を通しては納得がいかないからです。じゃあ、それらを手放せばいいのではと思いますが、人は、それをなかなか手放すことができません。今までの経験や知識、さらには自分の感覚を手放すことは、自分を失うことだと考えるからです。
イエスさまがどこへ行かれるのか知らないと言うトマスの姿は私たちの姿です。私たちも、イエスさまが私の中に、私と一緒におられるのに、遠くから探そうとします。私の人生、私の家族、私の教会、私の信仰に少しの問題が発生したときには、人と自分を比較し、隣の家の芝生が美しく見え、他の教会がそれらしく見えて、そこでより良い信仰が持てそうに思ってしまうのです。
その私たちはイエスさまを前にしてイエスさまを遠くから探そうとしていますが、イエスさまは、今、私の中で、私と向かい合ってくださっています。なぜなら、私たちは、すでに、神さまの命の名簿に名前が記されている者だからです。それは、私たちがいいことをしたからでも、優れた能力をもっているからでもありません。道であり、真理であり、命であるイエスさまによって、私たちが「喜び」として神さまに見つけ出されたのです。神さまにとって私たちひとり一人は「喜び」そのものです。その私たちとイエスさまは常に向かい合っておられる。そして、喜びそのものであるこの私を、向かい合ってくださる主の名によって隣人に分かち合ってほしいと願っておられます。なぜなら、イエスさまは、手も足も十字架に付けられ閉まって動けないから、私たちの体を通して働きたいからです。
福音宣教にはリスクが伴います。私という喜びを分かち合うためには、私の経験や知識の多くは手放さなければなりません。私たち自身も、教会も、イエス・キリストの道を示すためには、この世に悪に対して自分自身を失わねばならないのです。しかし、そうして失われるものに対して、神さまは百倍、六十倍、三十倍の実りをもって補ってくださる。それが神の国の法則です。
私たちは、名前が神さまの命の帳簿に記されている者です。私たちがこの世にいる間、神さまはその私たちを「私の喜び」と呼んで、喜び溢れる器として用いてくださいます。どうか、今週が皆さんにとって多くの喜びを収穫して感謝する、尊い日々でありますように祈ります。