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ルカによる福音書12章32~40節

美しさを見る目

8月15日は日本にとっては敗戦日ですが、韓国にとっては、日本の植民地からの復帰をお祝いする光復節であるために、私の心は複雑になります。段々と、加害者、被害者の枠組みを越えて物事を考えるようになり、自分の弱さ・人間の弱さを見つめるときに、誰にでも同じような過ちを犯す可能性が潜んでいることに気づくようになりました。

そして以前は、平和と戦争の勉強会や、アジアの各地から日本に連れて来られて強制労働戦をさせられていたその現場にも赴きました。北海道にいた頃は、朱鞠内ダム建設のために連れて来られて、強制労働の際に栄養失調や肺炎で亡くなった人たちが、小さな木箱に丸めて入れられ埋められた場所を掘り起こす作業に、数年の間参加しました。朱鞠内ダムは、戦地に武器や食料を送る電車の電力のために作られたものです。

発掘作業は、毎年の8月に行われました。ある年には五体の遺骨が掘り起こされました。そして、作業が終わる頃に、遺骨を並べて、アイヌ式、韓国の法事式、仏教式、キリスト教の祈りと、参加したすべての人たちの信仰に合わせて儀式を持ちます。またそれは、亡くなった人が信じていた宗教がどちらか分からないためのものでもありました。

最後にキリスト教の祈りが奉げられる際、私は、主の祈りを祈る場面で声を詰まらせてしまいました。それまでに、歴史的なことを乗り越えて日本を愛している、日本人とみ言葉をもって一緒に生きようと献身している、その志がまるで嘘であるかのように、私の内面の深い所から湧き上がる悲しみを抑えることができなかったのです。「私たちに罪を犯した者を赦しましたから、私たちの犯した罪をお赦しください」、そこで声を詰まらせたのでした。

今日は平和の主日ですが、聖書日課は普通の主日に従い、ルカ福音書から、そこに登場する「目を覚ましている僕」に注目して、平和の福音について分かち合いたいと思います。

今日の福音書を聞きながら、驚くことは、主人が帰ってきたときに目を覚ましていた僕たちが、主人の食卓に招かれ、主人からの給仕をいただいているということです。自分が帰ってくるまで寝ないで待ってくれた僕たちのために、主人が帯を締めて、自ら祝宴の食卓の給仕をしてくださる姿。

生きているうちに、主からこのようなサービスを受けられたらどんなに幸せだろうと思います。私は、主が整えてくださる食卓にはどんなものが飾られているのかと想像してしまいます。お祝いだからお寿司もあるかな? お肉は焼肉かな? ステーキかな? 夏だったら真っ赤なスイカも用意されているかなと。主がエプロンをかけて直接給仕をなさるその姿、きっと、イエスさまは料理が上手でおられるだろうと。今度一緒に台所に立ちたいなと、いろいろと想像をして、楽しく黙想させていただきました。

主が直接給仕をしてもてなそうとなさる、それほど美しい姿があるのでしょうか。それは愛する者のために腕を振舞う母なる神の姿。そしてその愛に応えようと目を覚ましていた僕たち。それは、ただ寝ないで、睡魔と闘っている人のことではなく、新しい道という、神の国への道にいることを意味します。その新しい道、神の国への道はどんな道なのでしょうか。

多くの人が、教会が決めている戒律を守り、聖書を読み、欠かさず朝夕に祈ること、主日礼拝に出席すること、決まった献金をささげることが神の国への道にいることと理解しているのかもしれません。それも一つの道かもしれません。私自身がそういう繰り返しの中で献身に至ったからです。日本の教会では早天礼拝はありませんが、韓国の教会にはあります。毎朝5時に教会に集まって祈ります。新宿に住んでいたころ、私もその祈りに毎朝欠かさず通っていました。そのときに、日本で伝道者として生きるという召命を受けたのです。祈りを重ねていくことによって、目を覚ましている状態をつくることは確かです。

しかしともすると、教会や教派で決められていることを守っているという自負心が、もっと自分自身を不自由にさせ、内面の深いところに、こうしなければならないというような律法的基盤を作ってしまう場合もあります。そうなると、自分と同じようにしていない人のことが気になり、常に自分と比較して、ついには裁くようになります。教会に通うことへの一所懸命さが、見えない武器を作ってしまう危険性を、私たちはもっているのです。

ですから、「目を覚ましている」、つまり神の国への道にいるとは、古い律法や会規をきちんと守ることより、新しい出発を信じることを意味します。古い決まりに固執する自分を疑うのです。

アブラハムは、新しい地へ向かって出発するようにと神さまからの召しを受けて、すぐ出発しました。彼は、「あなたの子孫を空の星の数のようにし、数え切れない砂粒ほどにする」という神さまの仰せを信じたのでした。この歳でどこへ行けというのですかとか、こんなにたくさんの家畜を連れて行くところなどありませんとか、何の条件もなしに、彼はただ信じました。つまり、約束という形で言い渡されたお言葉を、ただ信じた、それは実現されました。今、その数え切れない星の一つが私たちなのです。砂粒の中の一つが私たち一人一人なわけです。全世界にどれだけの人がアブラハムの子孫として召されているのかわかりません。

そして召されている私たちは、アブラハムの信仰を受け継いで、約束による目に見えない事柄を信じて、常に、新しい始まりを生きる者として、毎日、毎瞬間、一人でいるときも人と一緒にいるときも、仕事をしているときも休んでいるときも招かれているのです。

新しい始まりを生きる時にのみ私たちは本当の美しさに気づくようになります。今まで素通りしていたものの前に留まるようになり、無関心でいたものに関心を持ち始め、私が貧しい、恥ずかしいと嘆いていたことに、主が、イエスさまが、そこで給仕をしておられることに気づかされるのです。一人で寂しいと呟いていた食卓に、常に一緒に食卓を囲んでおられたイエスさまに気づくようになるのです。

目を覚ましている僕たちは、食卓を囲んでイエスさまからもてなしを受けています。そこは主と深い交わりが行われる神秘の食卓です。彼らが、自分の感覚によってではなく、イエス・キリストの教えに従って、主の愛をもって敵を愛し、敵との間に建てられている壁を愛の力によって崩し、自分と意見が対立する人に向かって、「いいよ」、「どうぞ」、「一緒に食べよう」と、その人を招く働きに専念した、それが目覚めている僕の姿。彼らは、イエスさまの視線が行くところを見つめ、イエスさまが美しいと思われるところで、イエスさまの口となり、手となり、足となって働いた人たちでした。傷つき、深い罪意識の中で苦しんでいる人たちをキリストの自由という食卓に招く働きをして、彼らは常に神の国への道にいたのです。

8月、平和の月。暑さがあまりにも酷いので、平和のことを考える余裕などないのかもしれません。しかし、ロシア、ウクライナで無残に死んでいく人々、若い男性だからという理由で動員されて銃を持たされ、戦い、死んでいく兵士たち。その息子を、夫を、父を戦地に出さざるを得なかった親や妻や子どもたちの切ない悲しみが、この夏の暑さより劣っていると言えるしょうか。かつて、日本でも同じことがおき、どれだけの人が犠牲になったのかわかりません。そして、今、中国やアメリカが、弱いアジア諸国を守るということを理由に、感情的に対立し合い、ミサイルが、人々が暮らす上空を飛んでいく。この状況の中で、私たちが平和を蔑ろにしてしまうなら、つまり、平凡な生活の中に共存する神の国を疑ってしまうなら、誰が、神さまが造られたこの美しい世界を守るのでしょうか。

イエスさまは、武力や排他的律法学者やファリサイ派の人たちに対して、そしてローマに対して、平和という福音をもって立ち向かった方です。イエスさまは、神さまが造られた世界の美しさ、お母さんが平和な笑顔で子どもにおっぱいをあげ、そしてエプロンをまとって一人の働き人として子どもを育て、近所の子どもたちが無邪気に走り回り、持っている者が持っていない者のために率先して施しをし、旅する人たちが安心してどの家でもノックができ、宗教家が政治や経済に手を染めないで純粋に神に仕えて働く世界を見つめておられました。平凡な生活の中で敵を作らない、自分と違った背景の人を裁かない、性差や人種の違い、肌の色の違いで人を評価しない。それがイエスさまの教えであり、そのためなら命をささげてまで闘ってくださった方。そのイエスさまの他に美しい人の姿があるのでしょうか。世界のどの神が、私たちが、偏見と差別の暗い道の中でさ迷わないで、光の道、神の国への道、新しい道の上を歩くように、命をささげながら導いてくれたのでしょうか。

そして、私たちと一緒に食卓を囲んで御自ら給仕をなさい、ご自分の神秘の中に私たちを招いて深い交わりをしてくださっては、私たちの小さな失敗や大きな過ちを赦し、もう大丈夫だから安心して新しい始まりを生きるように慰めてくださる。この方のほかにこの私に、私たちが住んでいるこの世に平和をもたらしてくださる方がどこにおられるのでしょうか。この方の振る舞いから美しさを見つめないでどこで本当の美しさを私たちは探すことができますでしょうか。

私たちは、主が招いてくださった食卓にて、主からいただいたその愛と平和を、次は人々と分かち合うように遣わされる群れです。8月、平和の月に、この主の美しい姿が私たちを通してこの世に証できる尊いときでありますように祈ります。