イエス、私の座す場

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ルカによる福音書14章1節、7~14節

イエス、私の座す場

鵠沼海岸の商店街には「シネコヤ」という小さな映画館がありますが、そこは私の休日を豊かにしてくれる所です。小さくて少人数しか入れない映画館の中には本がたくさんあって、上映時間の少し前に行けば本も読むことができます。内装の雰囲気も好きですし、とてもいいのは、そこで売っている美味しいパンや飲み物を購入し、それをいただきながら映画を見ることができるということです。

初めにシネコヤに行った頃のことですが、お金を支払うと番号札が渡されました。私がもらったのは四番の札でした。しばらく待っていると、どうぞ階段を上がって映画館に入ってくださいという声が聞こえました。一人の人が階段を上がるのを見た私は、早く行って良い席を取ろうとその人について階段を何段か上がりました。すると、「番号順で呼ばれますので少々お待ちください」と店主に言われ、恥ずかしい思いをしました。

このことは私にとって大きな学びになりました。今まで、他の人にとっては当たり前に思えるようなところで、身の置くべき場を勘違いしてきたことが何回もあったかもしれない。良いものを手に入れるために、ずる賢く振る舞い、他者の居場所を奪い取っていたかもしれない。反省しました。

その後も、シネコヤに訪れる度にあの日のことが思い出されてきて、恥ずかしいばかりですが、それでも行きたくなります。今どんな映画が上映されているだろうと調べるだけでも幸せな気分になるのは、この映画館がそれだけの魅力をもっているからだと思います。

映画館一つにしても、このように人の心を捉え、思いだすだけでも心をわくわくさせてくれるのですから、その場が神の国であるならなおさらのことではないかと思うのです。

本来、教会は神の国を目に見える形で現す場、神の国のモデルハウスとして理解されています。教会は、多様な人の集まりです。どんなに弱い人も強い人も、極乏な人も金持ちも、身体にハンディのある人もない人も、子どもも大人も、共に集まり、分け隔てなく交わりをもつ場が教会です。そこでは、集まった人々が重荷を降ろして、主の食卓からの深い憩いをわけ隔てなくいただきます。ですから、教会は皆にとって心がホッとする居場所にならなければなりません。

私たちは今日も、主からお招きを受けて集まりました。今、私たちは主のみ言葉の食卓を囲んで、主が語られるメッセージをいただいています。御言葉の食卓とは、牧師の説教を理解することではありません。説教の言葉を通して、それを遥かに越えたところで働く聖霊が、私たちの渇きに注いでくださる食べ物、いのちのパンをいただくということです。ですから、その聖霊の働きは、言葉の世界を超えています。牧師の説教は良くわからなかったけれど、満たされた、また与りたい、この場を思い出すだけで心がわくわくして嬉しくなる。これこそが教会の果たすべき役割です。

そのようにして渇きが満たされた人は、イエスさまに憧れるようになります。イエスさまの視点を自分の視点とし、イエスさまが一緒に生きようとしている人々に関心がいく、イエスさまが大切にしているものを大切にしたくなる、イエスさまの情熱や深い悲しみに共感するようになります。ありとあらゆる面からイエスさまを見つめ、イエスさまに従う歩みへと変えられてゆきます。

しかし、魂は渇いているのに、それを満たすことには関心がなく他のことに熱心な形で教会での交わりを求めるとき、牧師であれ一般信徒であれ、その人は、むしろ群れを分裂させる要因となります。集められた群れの一人一人の顔を見て上下を決め、優劣を判断し、社会的地位や富の多さによって自分と比較し、その人の存在価値を決めようとします。この世の価値観で教会を形成しようとするとき、その人にとってイエスさまは、動かない銅像に過ぎません。ペトロが、高い山の上で、仮小屋を三つ作って、そこにイエスさまとモーセとエリヤを閉じ込めようとしたように、偶像崇拝的な信仰を教会の信仰としようとするのです。

先ほど拝読されました福音書の中にそういう人たちの姿がありました。イエスさまはそういう人々の姿をご指摘しておられます。

安息日に、宴会に招かれた人たちの中に上席に着こうとしている人がいたのです。その様子を見ておられたイエスさまは、「あなたがたが招待を受けたら、末席に行って座るようにしなさい。そうするとあなたを招いた人が来て、『友よ、もっと上席にお進みください』と言うだろう。その時、同席の人みんなの前で面目を施すことになる」(10節)と。

招かれたところで先ずは末席に着くようなことは、日本の文化の中には深く根付いているものと思います。どこかに招かれたときに、堂々と上席に座ろうとする人を、日本ではほとんど見たことがありません。日本は、婚宴や祝宴の際には、大体は座る席が決まっていて、その席へ案内されますから、自分で席を探さなくてもいいのです。

しかし聖書の文化は日本の文化と異なります。聖書は、人の内面の深いところに居座っているうぬぼれを見逃しません。たとえ一番後ろの末席に座ったとしても、その心は、人を見下し、弱者だと分かれば平気でその人を軽んじて自分をその人の上に置こうとする、その姿を聖書は、御言葉は、イエスさまは、はっきりと見つめて指摘しています。群れの中に、肉眼では見えない上席と末席が設けられていると。

私たちの教会はどうでしょうか。私たちは今どこに座っているのでしょうか。

イエスさまは、招待を受けたら先ずは末席に座るようにと勧められたのちにこう言われました。「誰でも、高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)と。

へりくだる」という言葉が述べられています。この言葉は、一般的な謙遜を意味するものではありません。(よく、いやいや私のようなものが・・・とか・・・)

そうではなく、イエスさまが、神の身分でありながら死に至るまでへりくだって仕えてくださったように、自分を無にしてへりくだることを意味します。

つまり、どこから下へへりくだるのか。自分自身からへりくだるのです。

私たちは、自分自身に座り続けることにどれだけ執着していることでしょう。この場合の自分自身は「自我」、つまり「エゴの私」を意味します。そのエゴの私を座り続ける場にしないで、そこからへりくだるのです。なぜなら、イエスさまは最も下の方におられて、私たちが降ってくるのをずっと待っておられるから、私たちは自分を明け渡して降って行くのです。

ところが、その道がけっこう遠いのです。私自身を捨てることが容易ではないからです。そのことをある人は次のように言います。「この世でいちばん長い道は、頭から心までの道である」と。この言葉は、私たちがどれだけ頭で生きているかを示しています。表面的なことで人を分け隔て自分にとって良し悪しで人の良し悪しを決めようとする、その頭の世界にいきるときに、私たちは信仰の道を歩くことはできません。宗教の道を歩くことはできても、信仰の道を歩くことはできないのです。

信仰の道は宗教の道と異なります。今日、招かれた祝宴の場で上席に着こうとしている人たちは宗教の道を歩く人たちです。ユダヤ教の中の主たる人たちなのかもしれません。ユダヤ教であれ、キリスト教であれ、一つの宗教に属することと信仰の道を生きることは同じではありません。へりくだる道にいる人が信仰の道を歩む人です。

へりくだりの道のりをどのようにして私たちは歩くことができるでしょうか。つまり、どうしたら自分から出てきてへりくだる道を歩くことができるのでしょうか。それは、先ずは気づくことです。自分の中に座り続き、なお座り続けようとしているその自分に気づくことです。その気づきがあれば、歩き出す勇気が与えられます。そして、へりくだるときに、貧しい人、足が不自由な人、目が見えない人を、一緒に歩く仲間としてお招きすることでもできます。そのようにして多様な仲間たちと福音の道を歩いてゆくのです。そしてそのときに、私たちに大きなきづきがあります。本当は、私自身が貧しく、足があっても本当の道を歩けなかった不自由なもので、見えているようで見るべきものを見て来なかったことに気づかされるようになります。

さあ、恐れることなくへりくだる道を歩き出しましょう。きっと、心がわくわくすることでしょう。そこに、私たちの座す場、イエス・キリストがおられるからです。そこが神の国だからです。