20220911_061253720_iOS

喜びが天にある

ルカ15章1-10節

信徒説教(竹内章浩)

わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたにあるように。アーメン

1.はじめに
本日の九十九匹の羊と一匹の羊、有名な聖書箇所です。私は教会学校の教師をしているのですが、聖書は人を羊と譬え(たとえ)ることをお話し、羊の特徴として3つの特徴をお話しします。

1つ目の特徴として、羊は群れて生活すること。
2つ目の特徴として羊は弱い動物で、臆病であること。
3つ目の特徴として羊は視力が悪く、近視であることです。羊は視力が悪く、近くのものしか見えていないのだそうです。そして群れから離れてしまうことに気がつかない、間違えて違う群れについていくがあるそうです。そのような羊の特徴を、子どもたちにお話をします。

2.なぜ、イエスさまはこの話をしたのだろうか。
さて、聖書を見て参ります。徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスさまに近寄って来ます。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。』とあります。
不平を辞書で調べると「不満に思って心がおだやかでないこと」とあります。
この箇所ですが、岩波書店訳で読むと、このように訳してありました。

「さて、すべての徴税人と罪人とが、彼の言葉を聞くために、彼に近づいてきた。するとファリサイ人たちと律法学者たちとは、つぶやき出して言った、「こいつは罪人どもを受け入れ、彼らと一緒に食事をしている」とあります。

ファリサイ人たちと律法学者たちはつぶやいたのです。「つぶやく」を辞書で調べると「小さな声でひとりごとを言う」とあります。彼らは、不満を持ったといことになります。 私は仕事でよく愚痴をこぼす、つぶやくことがあるので、ドキッとします。

さて、彼ら、ファリサイ派の人びとは、イエスの時代、民衆の間で影響力をもっていました。ユダヤ教の教えを人々が日常生活の中で極めて厳格に守ることを求めた宗教指導者でした。ファリサイ派の人たちは職人や農夫、商人など、普通の村人として、村での生活を送りながら、貧しい生活の中でも、何とか守れるような「安息日や食事規定を中心とする律法を守る」ことを教えていました。なぜなら神殿での「いけにえ」等、貧しい村人たちには守れるものではなかったからです。彼らは貧しい民衆たちのことを考えて、「いけにえ」ではなく身の清さを保つことで神さまに正しいとされると人々に伝えていました。しかし律法の順守は、千をこえるたくさんの規定を生み出しました。やがて、それが人々を裁く、人を見下したり、差別をすることになっていきました。

さて、彼らは徴税人とユダヤ教の規定を守れない罪人と交わること、食事をすることは穢れることでした。穢れる、それは彼らからすると、神さまから離れてしまうことになります。それが、彼らの不満となりました。一方でイエスさまに神さまのお話を喜んで聞きにくる罪人と呼ばれる人たち、その当時、神さまを信じることは当たり前で、信じないとなれば、それは人として認められないのです。実に罪人と呼ばれる人たちは差別され、人として扱われていませんでした。「人として、しっかりと生きたい。神さまの話を聞きたい」とイエスさまにたくさんの人が集まりました。その反対にそれが穢れになると考えて、不満をつぶやく人たち、どちらが正しいのか。これは光と闇のようなコントラストを私は感じます。

3.誰が羊なのか
さて、この聖書箇所では「徴税人と罪人」が一匹の羊で、イエスさまはその人を探し出し、喜んでくださる。実際にイエスさまが活動されていた時代、イエスさまを信じた人たちには、罪人と呼ばれる人たちはたくさんいて、本当にこの御言葉は喜びに満ちた言葉であったと思います。

しかし、一方で、神さまから一番遠く離れた人は誰なのでしょうか。私はファリサイ人たちと律法学者たちと考えます。「何々の決まりをすれば、清くなれる。」「何々も規定を日々、守れば、正しい生活だ。そして幸せになれる。」それを信じること、人に強要すること、それは本当に聖書の教えなのでしょうか。

その当時の罪人とされた人がイエスさまのもとで一人の人として認められ、罪を許されて、正しくいきようとする。その喜びをともに喜べない、祝えない。それも、神さまから離れた羊なのだと私は思います。

また羊がいなくなった、それは、とある日だけの話なのでしょうか。人生において1回だけ、起きることなのでしょうか。それは日々起きていることと思います。滅多におきることならば、羊飼いは必要ありません。目を離したら、どこかに行ってしまう。危険な目に遭う。全ての羊がそのようなことでしょう。自惚れ、傲慢になる、そういう心は神さまから離れたさまよう心といえるでしょう。

しかし、イエスさまは、ファリサイ派の人々や律法学者たちを追い出しはしません。強く非難の言葉も、言いません。彼らに対して「一緒に喜んでください」と言います。それは、あなたも群れの中の羊なのだと、神さまの大切な羊なのだと仰っていると思います。

このファリサイ派の人々や律法学者たちのように、私たちは人をさばくようなことはないでしょうか。また悲しみや、苦しみの中で、「私はもうあれができない」「これができない」と自分自身をさばいて「私なんてどうでもよい」と思うことはないでしょうか。

4.喜びが天にある。
羊を探すイエス様のお気持ちを考えたいと思います。私の幼少期、小さいころの話をします。私は小さい頃に、親と買い物にいくと良く迷子になる子どもであったそうです。私自身はあまり覚えてはいませんが、私が幼稚園ぐらいのときは、3回に1回は、親に言わせると「どこかに消えた」そうです。私はそのころ、絵本やロボットや恐竜のおもちゃが大好きで、親が目を離した隙に、本屋や玩具売り場に勝手に行ったそうです。親戚一同が集まって、買い物をしているときも、消えて、迷子になったようで、親戚のみなさんで私をさがしたそうです。かすかな記憶で、私がおもちゃをじっと、見ていたら、親が「こんなところにいた」と、私が振りかえると、息を「ハアハア」と涙ぐむ母がいたことが記憶にあります。それだけ心配し、どれだけ一生懸命に探したことでしょうか。

今、思い返すと、とんでもないと思うのですけど、見失った場所からおもちゃ売り場までは、OKストアからさいかやぐらいの距離がありましたので、本当に心配をかけたと思います。当の本人である私は、少し怒られたような、あまり記憶にないのですが、母が昔の話をすると、時々話に上がりますので、相当な心配をかけたと思います。

さて、聖書の話に戻します。神さま、イエスさまは、私たちが立ち返り、御言葉に生きることをお喜びになります。イエスさまの大切な羊であるからです。わたしたちが生きること、その「いのち」を自分のいのち以上に大切に思っています。

しかし、私たちは「羊」で、神さまの思いを忘れて、道を外れて、どこかにいってしまいます。真面目な信仰生活を送っていても、心は遠く離れていることがあります。

それは、私が迷子になったようなことなのだと思います。イエスさまは心配し、探しています。時には見つからなくて、九十九の羊とともに一度は家に帰り、戻ってこないか、待ち続けていることもあると思います。

羊は周囲が暗くなり、群れからはぐれたことが分かり、「いのち」が危険になったときに、声を上げて泣きます。その声を羊飼いは聞き、探してくださいます。

そう、私たちは暗くなるまで、群れからはぐれたことに気がつかないのです。それは、ただ気がつかないだけでなく、群れのことや、羊飼いに無関心であるかもしれません。そう、自分の大切なものが失われようとしたり、本当になくなったときでないと、私たちは、神さまのお心から遠く離れたことがわからないのです。暗くなり、鳴き声を上げる、私たちはそんなことはないと思うかもしれません。

しかし、人から見て、よく見える部分でなく、誰からも見られたくない暗闇に隠したいところに、羊である自分がいると思います。それはもっとも弱い自分です。

そう、神さまは私たちの心の深い、闇の部分で呼びかけ、出会うのです。その自分と出会い、過ちや、弱さを認めるときに、イエスさまの声が聞こえるのだと思います。また自分の弱さに気づくこと、イエスさまの声を聞こうとすること、また聞いて歩むこと。それが神さまに立ち返ること、悔い改めであると思います。

さて、私自身の話を、また一つ話をいたします。私は今回、この説教をするにあたって、苦しみました。この聖書箇所が心に入ってこなかったからです。聖書の教えである教義や、昔の名牧師の説教を借りてこれば、説教はなんとなくつくれたと思います。しかし、「主は生きておられる」のです。この私が本当に、心からそうだと思えなければ、その説教は死んだ説教で、ファリサイ派の人々や律法学者たちの教えなのだと、心がないものだと思います。私自身、この説教箇所は有名なところで、何とかなるのではと思っていました。しかし、何度も書き換えて、説教原稿をつくっておりました。私は今回、この説教箇所に聴くことで、改めて自分の弱さに向き合っていないと思いました神さまへの真摯な姿勢が欠けていました。自分の言葉ではない説教原稿を読む中で、人を思いやる心、豊かな心は、弱い自分、心の貧しさを受け入れなくてはいけないのだと、気づきました。苦しみ、悩み等は目を背ければ、忘れてしまえば、生活は普通に出来ます。しかし、それは探しにきているイエスさまから身を隠すことと同じことと思います。イエスさまが来られること、イエスさまの言葉は光、それは暗闇の中で輝くのです。自分の破れた心、貧しさの中にいなければ、その輝きは見えません。それは明るい都会で夜空の星が見えないように、小さな輝きであるからです。私は、自分の生活や愛するものだけを見ていたのだと、教えられたと思います。私も羊、そのものであったと思います。そして、イエスさまは立ち返ってほしいと願っていると思います。

さて、イエスさまは、私のように心が離れている人を、探してくださいます。また待っていてくださいます。イエスさまが「羊」を見つけたとき、何と仰るのでしょうか。聖書には書かれておりません。けど、その言葉が喜びの言葉であることは間違えありません。

一番弱い、貧しい自分である姿を、イエスさまは受け入れ、喜びます。全く気にされません。それはイエスさまご自身が、そのような、貧しく、傷だらけのお姿だからであるからです。私たちを愛する。傷だらけになっても私たちを愛するイエスさまの声を聞きたいと思います。そしてイエスさまに導かれて、群れに戻りたいと思います。

今、苦しみの中にある人、悲しみのある人、悩みのある人、その人たちにイエスさまは共におられます。どうか、その祈りの中で、イエスさまの声を聴き、その言葉の光を見失わないで、イエスの羊として共に歩みたいと思います。

そして私も群れに友が帰ってきたなら、喜んで迎えていきたいと思います。

お祈りいたします。

イエスさま、わたしたちは羊で羊飼いであるあなたの気持ちがわかりませんでした。しかし、群れから離れ、鳴き声をあげる私たちをあなたは探し出してくださいます。そして、何度も、何度も、群れから離れ、あなたに探していただかなくてはなりません。そのようなわたしたちですが、群れから離れる度に、あなたに立ち返ります。どうか、共にいて、導きください。今週も世の中、社会に出ていきます。あなたの御言葉を抱いて、あなたの道から離れないようにお守りください。

アーメン