助けは主のもとから

Home » 助けは主のもとから
20221004_074143030_iOS

ルカによる福音書18章1~8節

助けは主のもとから

気温が段々低くなってくると、朝、布団から出るのが苦になります。頭の中では、起きてすべきことをあれこれと数えていますが、体は布団の中にいます。結局、朝のルーティンの一つが省略されたりして、朝支度がばたばたになってしまいます。

一つのことを長く続けることの難しさを感じます。起きる時間を一定に守ることができない、聖書の決められた箇所を読み続けることや、自分や他者のための祈りを毎日欠かさないことも難しい。「継続は力なり」という言葉が自分とは無縁であるかのように思ってしまいます。

今日の福音書は、やもめと裁判官についてのたとえ話です。やもめは、「神など畏れないし、人を人とも思わない」冷たい裁判官を相手に、不当な扱いを受けている自分の訴えを聞いて欲しいと必死で訴えています。きっと、誰かに持ち物を搾取されたか、濡れ衣(ぎぬ)を着せられたか、不当な立場に置かれている様子です。やもめは、訴えを聞いてくれるまで、裁判官の扉を叩き続けます。結局、裁判官は、自分は「神など畏れないし、人を人とも思わない」人だけれど、さもないとひっきりなしにやってきて、うるさくて仕方ないから裁判をやってあげようと、心を改めたという話です。

福音書の日課に合わせて、旧約の日課は創世記32章のヤコブのペヌエルでの神の者との格闘の記事が選ばれています。ヤコブが長かったハランでの生活を終えて、大勢の家族とたくさんの財産を携えてベテルへ帰る途中、ペヌエルで、神の者と思われる男と夜明けまで格闘する記事です。その男はヤコブの股関節を打ってヤコブに勝とうとしますが、ヤコブは股関節の痛みを抱えながらも、「私を祝福してくださるまでは放しません」と、決して闘いを諦めません。結局、ヤコブは名前をヤコブからイスラエルに変えてもらう光栄に与り、さらに神さまからの祝福をもいただくことができました。

聖書の中には神さまに祈る人の姿がよく出てきますが、その中でもこの二人、旧約聖書のヤコブと、本日のイエスさまのたとえ話の中のやもめは、自分の訴えを聞いてくれるまで相手をつかんで放さない、闘う、格闘する姿を見せています。静かに、沈黙のうちに祈るとか、どんなものでも与えられたもので満足する人とは対照的です。

そしてイエスさまは、最後にこのようにも話されました。「しかし、人の子がくるとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」と。

このたとえ話は、すぐ前の17章20節から述べられた、終末時に起きることの後のお話です。17章では、ファリサイ派の人々から、「神の国はいつ来るのか」と尋ねられて、イエスさまは「神の国は観察できるような仕方では来ない。『ここにある』とか、『あそこにある』と言えるものではない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ」(17:20~21)と言われたあと、最後の方では、「その夜、一つの寝床に二人が寝ていれば、一人は取られ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼を引いていれば、一人は取られ、他の一人は残される」と話されました。仲良しの夫婦であっても、親しい友だち同士であっても、神さまへの信仰を分かち合うことはできないということなのです。つまり、人は他者のためにお祈りをすることはできるけれども、その人の負うべき十字架を代わりに負うことも、自分の負うべきものを他者に負わせることもできないということです。

この話の延長線上で語られた本日の福音書の最後の方で、イエスさまは、「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」と、すこしがっかりするようなお言葉を言っておられます。「人の子がくるとき」という言葉は、このたとえ話が前からの続きである、つまり、終末時のことを表そうとしていることが分かります。

終末のとき、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうかとおっしゃるイエスさま。このイエスさまのお言葉は、この私に向けられているとつくづく思います。きっと、臼を引いている二人の内の一人は取られ一人は残されるとしたら、残されるのは私であろうと思うのです。神の国はあなたがたの中にあるとおっしゃるイエスさまのお言葉を、頭ではよく理解しているつもりですが、実際、神の国を生きようとしない自分がいるのです。神の国を生きようとすれば、変わっていかなければならないからです。変化を恐れているのです。つまりそれは、やもめのように、必死に祈る必然性を、今の自分は感じないということです。

イエスさまの時代のやもめは、社会的にとても弱い立場に置かれていました。当時は、女性が一人で生きられる社会ではありませんでした。生まれたら父親の下で、結婚したら夫の下で、夫に先立たれたら息子の下で生きるような、父権制のピラミッド型の社会だったからです。ですから、夫に先立たれたやもめたちは軽んじられて、夫から相続された財産があっても搾取されたり、子どもが売られたりするような、悲惨な状況に置かれていました。地域の行政の保護下でやもめ共同体が造られていましたが、そこに来る献金が途中で権力者たちに横取りされて、共同生活はとても貧しく、厳しいものでした。

イエスさまは、そういうやもめたちの生活をよくご存じでした。ですから、このたとえ話にやもめを登場させているのです。このたとえ話で、やもめは、当時の社会の最も弱い立場に置かれている人々を代表しています。自分のものすべてを権力者たちに奪い取られて、社会の底辺に追いやられ、人権も生きる希望さえ奪われた人々のことを、イエスさまご自身が代弁しておられるのです。宗教の指導者たち、神の国を人々に指し示す働きを怠っているファリサイ派の人々に向かって訴えているのです。神の国はこの貧しくされた人々のものである、人々から見捨てられ、神の助けがなければ生きることが難しい人々の中に神の国はあるという宣言をしておられるのです。

そうなのです。旧約聖書のヤコブ。彼には四人の妻がいて、多くの子どももいますし、使用人たちも大勢いました。そして家畜の群れやほかにも財産がたくさんあります。ハランの叔父の家で働いて得た財産すべて携えて故郷へ帰る途中でした。彼は十分祝福された人です。しかし、彼は、ペヌエルで出会った神の人に、自分を祝福してくれるまでは決して放しませんと言って、格闘を続けます。それ以上に祝福を受けなければないほど、何がヤコブに必要だったのでしょうか。

ヤコブは、自分の力で得た財産や家族と、神さまの祝福は違うということを知っていたのです。生まれる時から兄エサウの足をつかんだまま出てきて、母と組んで兄の長子の権利を奪い取って伯父のところへ逃げて20年。今彼にある家族と財産は、その間、一所懸命に働いて得たものでした。しかし、彼の中に確信がない、自分の力で努力して得たものではなく、神からの一言、あなたはそのままでいいのだという神からの一言の確信がありませんでした。それが神の祝福であることを知っていたヤコブは、それをいただきたかったのです。

このヤコブの姿が、今の私たちの状況を良く表していると思います。便利なものはすべて整っているけれども、肝心な一つがない。人並に一通りあれこれ備えても、心は空しい。一所懸命に働いて忙しくしているのに、このままでいいのだろうかと、今の自分を疑ってしまう。

絶えず、必死に、神と闘うほどまでに祈らなければ、私自身が、自分の力で得た財産の奴隷になってしまうということを、イエスさまは良く知っておられました。祈ることで現実をはっきり見つめていなければ、あれこれ持っている財産や、忙しくしていることで、神の国の扉をたたかなくても生きられる。つまり自分自身を誤魔化すことができる、それをイエスさまは見抜いておられるのです。そして、その世界がどんなに虚しいかをよく知っておられるのです。

それゆえ、祈りは闘いであることがわかります。虚しい世界になじんで生きることを良しとしてしまう私自身との闘いです。見えないもの、神さまの祝福を疑ってしまう私自身との闘いです。その闘いの中で、私たちは、その私を助けて、味方になって私たちが闘うべき空しいものと闘ってくださっているイエスさまに出会うのでしょう。そして、私たちがこの世での生を終えて迎える最期のときにも、そこにおられるイエスさまが私の手を握って一緒に神の国に入っていってくださる、そのイエスさまを仰ぎ見る幸いに包まれるのでしょう。みなさまの毎日が救いの確信に満ちた、祝福された日々でありありますようにお祈りいたします。

 

平和の神が信仰からくるあらゆる喜びと平和とをもってあなたがたを満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン。